柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

中沢新一+國分功一郎「〈原子力の時代〉から先史の哲学へ」

ドゥルーズ=ガタリ千のプラトー』(河出書房新社

(フランス小説は)点を形成することにばかり時間をかけ、線を、活動的な逃走線を、肯定的な脱領土化の線を引こうとしない。

一つは輪郭のはっきりした硬質な切片性の線、もう一つは分子的な切片性の線。それから抽象の線、つまり、生死にかかわるという点では最初の二つにひけをとらない逃走線である。

逃走線における〈地下潜行者〉。


鈴木創士「ランボー ひとりっきりの戦争機械」『ドゥルーズ 千の文学』(せりか書房

ドゥルーズガタリが『千のプラトー』で論証したように、戦争機械の働きを考慮に入れなくても、そもそも国家をすでに前提するものによっては、国家は説明できないのである。

 ドゥルーズガタリは国家モデルには属さない様々な思考のタイプを分析するにあたって、いかに戦争機械が国家による戦争や国家装置とは異なるものであるかを示すために、将棋と囲碁の比較を持ち出している。

隊商を組み、月の砂漠を行く彼は、ノマドの振りを真似たノマドというよりも、むしろ一個の頑迷固陋な戦争機械である。だが孤独な戦争機械、植民地主義の独身機械とはいったい何なのか。

 戦争機械は永久機械に見えるが、いつかは壊れるものであり、それもつねに裏切られた運命がつきまとう。

そう、もはや戦争機械には伝言などないのである。


中沢新一國分功一郎「〈原子力の時代〉から先史(プレヒストリー)の哲学へ」atプラス11

國分 例えば日本の原子力政策の裏には核兵器保有という隠された理由があるのだと言う人もいて、柄谷行人さんなんかもそうおしゃっています5。

5 柄谷行人は、古川和男著『原発安全革命』(文春新書、二〇一一年)を引きながら、トリウムを利用した原子力発電はウランより安全かつクリーンで小型、配電ロスにも少ないにもかかわらず採用されていない、なぜならそこからはプルトニウムが取り出せない、つまり核兵器が作れないからだ、と述べている(「反原発デモが日本を変える」(柄谷行人公式ウェブサイト)http://www.kojinkaratani.com/jp/essay/post-64.html)。この指摘が極めて重要であることは強調しておきたい。(國分)