柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

世界革命

マルクス

一度目は悲劇として、二度目は茶番として。


イマヌエル・ウォーラーステインほか『反システム運動』(大村書店)

世界革命は、これまで二度あっただけである。一度は一八四八年に起こっている。二度目は一九六八年である。


ドゥルーズガタリ千のプラトー

国家自身は戦争機械を所有していない。国家は戦争機械をただ軍事制度の形態でのみ自分のものにするのであるが、軍事制度化されたとしても、戦争機械はやはり国家の頭痛の種であることをやめない。


絓秀実『革命的な、あまりに革命的な 「1968年の革命」史論』(作品社)

それは図らずも(?)、定住に対するノマド、農業に対する商業、国家に対抗する(「悪党」と呼ばれる)戦争機械、条理空間(農業)に対抗する平滑空間(河川・海洋貿易)といった、『千のプラトー』においてドゥルーズガタリが抽出してみせた「六八年の思想」と呼応することになったのである。

それは一九七〇年代にいたって、まさに日本における「六八年の思想」の嚆矢ともいうべき柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』へと継承されていく。柄谷もまた、六〇年安保時の最年少の学生アクティヴィストであった。

慶応には岩田世界資本主義論に依拠するブント系(マルクス主義戦線派)も存在したが(経済人類学者、元衆議院議員栗本慎一郎など)、その闘争をルポルタージュした石原慎太郎さえそのエネルギーと運動規律の調和を賞揚したことからも知られるごとく(「君たちにも何か出来る」、『孤独なる戴冠』所収)、六〇年代的ラディカリズムの端緒的なものにとどまった。

日本のジャーナリズムにおいて、疎外論批判がそれなりに受容されたのは、柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』が単行本として刊行された七〇年代後半以降のことである。

まさに、この「戦争機械」(ヴィリリオ的に否定的な意味での)たる映画の、メディアとしての特異性こそが、「自然」概念のエコロジカルな転換にともなって、文学や演劇に代わって、映画が六八年に突出してきた理由にほかならない。

もちろん、それは映画がヴィリリオ的な意味で「戦争機械」であるがゆえに可能となった事態にほかならない。

この点で、大島は映画が「戦争機械」であるゆえんを発見したと言ってもよい。

しかし、実際に「戦争機械」として開発されたインターネットが、確かに驚くべき進捗をとげながらも、われわれが論じてきた意味での「映画的」なパラダイムにいまだ属していることは、明らかであろう。

続いて、柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』(一九七八年)が宇野の「可能性の中心」の今日的復権を開始した。

 柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』以降、今や誰しも知るように、これは価値形態論をシニフィアンの論理として読むことにほかならない。

たとえば、柄谷行人による岩田弘インタヴュー「世界資本主義と近代世界システム」(「批評空間」II―20、一九九九年一月)などがそれである。

それは、ピエール・クラストルとドゥルーズガタリに倣えば、「国家に対抗する」ところの「戦争機械」を生成させようとする目論見だったと、あえて言っておくべきである。

 しかし、それもまた「国家に対抗する」ところの「戦争機械」を見いだそうとするモティーフを潜在させていたことは指摘しておきたい。

「戦争機械は国家装置の外部に存在する」という「公理」を立てる『千のプラトー』のドゥルーズガタリは、それを「純粋な多様体、または群のようなもの」と定義する。そして、国家装置と戦争機械の違いを説明するに、将棋と碁をあげて比較する。

碁石は主体化されていない機械状アレンジメントの要素であって、内的特性などもたず、状況的な特性しかもたない」がゆえに、国家の外部に位置する戦争機械のモデルたりうるというのである。
 かかる戦争機械の歴史的な例として、ドゥルーズガタリチンギス・ハーンをひとつ挙げるのだが、それが毛沢東であってもかまわないことは、『千のプラトー』の別の個所で、「『偉大な』国家元首」――それは戦争機械の別名だろう――たる者に、チンギス・ハーンとともに毛沢東を挙げていることでも明らかである。

しかし、マオイズム否定の万の言説を受け入れたとして、なおかつ「偉大なる毛沢東」と言うことの正当性は、毛沢東が――とりわけ、その人民戦争論=持久戦論が――単なる個人名ではなく、ヘーゲル的国家理性の外部性としての戦争機械を指し示す言葉だからである。

絶対精神たる資本が非資本制的な外部性を包摂しながら進む世界史的過程を記述する岩田理論は、その過程がディコンストラクティヴなものであったとしても、戦争機械という真の外部性への視点が欠けているからである。

赤軍派が最初に提起し、ほとんどのブント諸派のみならず多くのニューレフト諸党派をも追随させたその軍事路線は、戦争機械の外部性を誤認し、党という国家装置の一変種の内部に包摂することを目論むものだったからである。その弊は、当時のニューレフトのなかではもっとも戦争機械の外部性という概念に接近していたはずの、京大パルチザン・滝田修にあってもまぬがれなかった。

すでに述べておいたように、「戦時体制」下のイデオロギー装置たる大学において――セクトとしてではなく――「群」としてさまざまに闘うとは、自らが戦争機械となることのはずだからである。

しかし、ドゥルーズガタリが言う碁の比喩を引けば、「戦線なき戦争、衝突も後方もない、極端な場合には戦闘なしの戦争」こそが戦争機械の本領ではなかったか。
 かかる戦争機械として、六八年の運動が自覚的に再構築されようという目論見は存在した。

そこにおいては、岩田危機論から第三世界論へという文脈が、戦争機械という隠された主題とともに、反復されるのである。

 日本における六八年革命が――六八年当時はいまだ存在していなかった――「戦争機械」という概念に憑かれていたことの証拠の一つに、「昭和維新」を掲げた陸軍青年将校のクーデター未遂事件として知られる、いわゆる「二・二六事件」(一九三六年)への広範な関心が挙げられることについては、すでに簡単に触れておいた。

 しかし、このような意味での、北を介した二・二六事件への関心とはややずれるかたちで、そこにおける戦争機械としての青年将校集団への着目が、六八年時において、ひそかに持続していた。

三島由紀夫が「おもちゃの兵隊」よ揶揄されながらも創設した「楯の会」の目論見は、それを最大限肯定的に見積もれば、かかる意味での――それを「(反)革命的」クーデターに使用すべきものとしての――戦争機械(のパロディー)としてであっただろうし、大江以降の(大江に促された)学生アクティヴィスト集団が二・二六の青年将校を遠望して「軍事」に憑かれていったのも、ある意味では同様な志向であったと言いうる。

また、『仁義なき戦い』も、「集団劇」と言われたその徒党的戦争機械の様相に、その目覚しさがあったことは言うまでもない。
 そのような「国家の頭痛の種」たる戦争機械を記述した書物として、二・二六事件青年将校グループの被告であり、事件にかかわったとして禁固刑に処せられた元陸軍大尉・末松太平回顧録『私の昭和史』(一九六四年)が存在する。

末松の記述を追ってみれば、二・二六に関与した青年将校グループが、ツリー状の国家的軍事制度に対抗する「リゾーム状」の「徒党」であり「群れ」であるところの「戦争機械」たる色彩を色濃く持っており、それゆえにこそ「国家にとっての頭痛の種」であったことが知られる。

伝播される「威信」とは、この場合、「天皇の軍隊」と偽装されながら、実は、国家の外にある戦争機械たることのそれであろう。

それこそが、二・二六という国家に対抗する戦争(機械)の核心であったからである。

 しかし、『私の昭和史』からは、それとは異なった戦争機械という水準が存在するということを読み取りうる。

三島由紀夫の「楯の会」は、そのような意味において、戦争機械の「反革命」的模像にほかならなかったといえる。

七〇年一一月の三島の「クーデター未遂」は、二・二六のそれと等しく、戦争機械が国家的制度のなかに包摂されていく契機を決定的に刻印するものであり、赤軍派をはじめとするニューレフト諸党派の戦争機械も、同様の軌跡を描くことの道標となったのである。

ともかく、そのような歴史に対して、われわれは六八年の文脈に即してドゥルーズにインタヴューするアントニオ・ネグリと同様に、「『戦争機械』がどこに行こうとしているのかわからないとき」に響く「いくぶんか悲痛なトーン」(『記号と事件』宮林寛訳)を聞いてしまうのかもしれない。

 ドゥルーズガタリの戦争機械の概念は、それが国家権力の外において作動するという意味で、アントニオ・グラムシの――「機動戦(および正面攻撃)」の対立概念たる――「陣地戦」の近傍にあるといえる。それは、『千のプラトー』において、戦争機械が将棋に対する囲碁の比喩によって語られていたことを見ても明らかだろう。もちろん、戦争機械を国家にとっての絶対的な「外」と規定するドゥルーズガタリと、陣地戦を市民社会内において捉えるグラムシのあいだの決定的な差異や、グラムシのそれが、後述する彼の知識人概念と相即して「有機的」な概念であるのに対して、ドゥルーズガタリのそれは「器官なき」=無機的なものであろうという差異を無視しえないとしても、である。

個的=共同体的な「コミューン」は、それ自体としては、徒党の群れとしての戦争機械たりえないと思われるからである。

おそらくそのことを先駆的かつ鋭敏に察知していた柄谷行人は、七一年に書かれた「現代批評の陥穽」(蟻二郎、森常治、柄谷編著『現代批評の構造』所収、後に『柄谷行人初期論文集』にも収録)で、平田清明を援用しながらも、その「個体性」概念を――強引にも――今日の言葉で言えば「シンギュラリティー」と読みかえなければならなかった。

柄谷のこのような着想の近傍には、『内部の人間』(一九六七年)等の秋山駿が存在した。

 柄谷のそのエッセイは、ブランショフーコーの言う「主体の死」への批判として平田清明を援用したものであり、それゆえ個体性に対応する「共同体」について触れるところはないが、確かに、戦争機械としての徒党とは、シンギュラリティーの「群れ」=「共同体」とも言いえよう。

もちろん、両者はともに、六八年的な「戦争機械」の機能を失調させるという反革命的な役割を担ったという意味では、ある側面を共有しているはずではあるが――。

「回教徒」であることを否定するのではなく、「回教徒」となったユダヤ人の群れ=戦争機械として、である(アラブに飛んだ重信房子らの日本赤軍には、確かに、日本の内ゲバ的世界への批判が感得されはした)。しかし、そのような戦争機械のイメージが今なお鮮明な像を結ばぬままであろうことに、われわれはしばらくは耐えねばならないだろう。

そのことを、われわれはドゥルーズガタリの、おそらくは毛沢東=「人民戦争論」を参照してなった「戦争機械」の概念によって明示してきたはずである。

かかる差異に対する感性は、柄谷行人の登場以前には、廣松渉も含めた日本のマルクス主義者には存在しないものであり、思想内容は異なれ、同時代的には『マルクスのために』のアルチュセールを想起させさえするものである。

そして、このディレンマをさらに実践的に――戦争機械の作動において――脱構築しようとしたのが、同時代の日本のマルクス主義者として藤本進治を高く評価していた、津村喬にほかならない。