柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

旭川自衛隊にエゾシカ、茂原にヤギ

スラヴォイ・ジジェク大義を忘れるな 革命・テロ・反資本主義』
中山徹・鈴木英明訳、青土社

 このようにして柄谷行人は、生産過程において生み出されると同時に生み出されない価値のカント的アンチノミーを解決している。生産過程において、価値は即自として生み出されるだけなのだ。そして、まさしくこうした即自と対自とのギャップがあるがゆえに、資本主義は形式的な民主主義と平等を必要とするのである。

  資本を主人-奴隷の関係から区別するのは、まさに、労働者が消費者および交換価値措定者として資本に相対するという事実であり、労働者が、貨幣という形態で、流通の単なる一つの起点――無限に多くの起点のうちの一つ――になるという事実なのであって、ここにおいては労働者の労働者であるという規定性が消し去られているのである65。

 この一節が意味しているのは、資本がその再生産過程の循環〔流通〕を完結させるためには、役割が逆転してしまう臨界点(クリティカル・ポイント)を通過しなければならないということである。「[…]剰余価値は原理的に、総体として、労働者が自ら作ったものを買い戻すことにしか存在しない66」。この点は柄谷にとって決定的に重要である。それは、今日の資本による支配に対抗するのに必要な梃子を与えてくれるのだ。プロレタリアートがこの特異点に攻撃の焦点を合わせ、買い手という立場から資本に接近し、したがって、この特異点においてはまさしく資本の方がプロレタリアートの機嫌をうかがわねばならないのだが、これは当然ではないだろうか―― 「[…]労働者が主体となりうるとしたら、消費者として以外にない67」。

(65) Marx, Grundrisse, pp. 420-1.
(66) Kojin Karatani, Transcritique. On Kant and Marx, Cambridge, MA: MIT Press 2003, p.20. 〔柄谷行人トランスクリティーク岩波現代文庫、2010年〕
(67) Ibid., p. 290.


AKIRA」の気分が味わえる仕事をしている。
いや「2001年宇宙の旅」だ。
ボーマン船長が、映画の終盤で
HALの内部に向かうように。
赤い照明ではないが。
ツインピークス」の赤い部屋が
「2001年」のようだと前に考えた。
red roomを逆さに読むとmurderか。