柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

リゾームと雀蜂

ドゥルーズガタリ千のプラトー 上』(河出文庫

 こうして本というものがそれ自体一個の小さな機械であるならば、この文学機械それ自体はどんな測定可能な関係を、戦争機械、性愛機械、革命機械などに対して――そしてそれらの機械をすべて包含する抽象機械に対してもっているのか?

 クライストと途方もない戦争機械、カフカと前代未聞の官僚機械……

 蘭は雀蜂のイマージュやコピーを形作ることによって自己を脱領土化する。けれども雀蜂はこのイマージュの上に自己を再領土化する。とはいえ雀蜂はそれ自身蘭の生殖機構の一部分となっているのだから、自己を脱領土化してもいるのだ。しかしまた雀蜂は花粉を運ぶことによって蘭を再領土化する。雀蜂と蘭は、非等質であるかぎりにおいてリゾームをなしているのである。蘭は雀蜂を模倣していて、何か意味する仕方(真似、擬態、おとり、等々)で雀蜂の似姿を再生していると言うかもしれない。

 これと同時にまったく別なことが問題になっているのだ――もはやまったく模倣などではなく、コードの捕獲、コードの剰余価値原子価の増量、真の生成変化(ドゥヴニール)〔なること〕、蘭の雀蜂への生成変化、雀蜂の蘭への生成変化があって、これらの生成変化のおのおのが二項のうちの一方の脱領土化ともう一つの再領土化を保証し、二つの生成変化は諸強度の循環にしたがって連鎖をなしかつ交代で働き、この循環が脱領土化をつねによりいっそう推し進めるのだ。

 リゾームはこれとまったく異なるもので、地図であって複写ではない。複写ではなく、地図を作ること。蘭は雀蜂の複写を再現しているのではなく、リゾームのうちにあって雀蜂とともに地図になっているのだ。

 卵についても、不定冠詞についても、生成をやめない環境の同時性についても、精神分析は何一つ理解しなかったのだ。

リゾーム http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%A0
ラン科 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E7%A7%91
 英語では「Orchid(オーキッド)」で、ギリシア語の睾丸を意味する「ορχις (orchis)」が語源であるが、これはランの塊茎(バルブ)が睾丸に似ていることに由来する。


千のプラトー』は詩的というより文学だ。
強迫的な/に文章が書き連ねられている。筒井康隆の作品のように。
精神分析を批判したドゥルーズ=ガタリ
フロイトを読んだ筒井康隆的なのだ。
『アンチ・オイディプス草稿』(みすず書房)の編者ステファン・ナドーは
蘭と雀蜂からドゥルーズガタリの同性愛的関係を示唆したが
その発想もフロイト的である。
ツリーに対して中心のないニューロン的なネットワークのリゾーム
後のインターネットを先取りしたと言われる。
しかし、リゾームが蘭の睾丸のような茎を意味し
蘭の生殖に雀蜂という器官なき身体が必要であるという議論であれば
やはりフロイト的な比喩に思える。