柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

浅田彰のディスクール

sasaki_makoto2009-03-05

以前、紀伊国屋ホールのシンポジウムが始まる前に
浅田彰氏が近くの談話室に入るのを見た事がある。

この前の京都で、浅田氏が最前列の僕を見ていたような気がする。

丸山眞男は日本の中間団体は国家権力に加担すると述べ、
大衆を評価する吉本隆明と論争になったらしいですが」

と質問しようと思ったがやめた。


クロード・レヴィ=ストロース「序」
ロマーン・ヤーコブソン『音と意味についての六章』(みすず書房

神話素とは、神話的談話(ディスクール)の構成要素であって、これもまた、同時に対立的、相対的、消極的な実在体である。

神話的談話(ディスクール)の基本単位は、たしかに語や文で成り立っているが、しかしそれらの語や文は、あまりにも類推を押しすすめるつもりはないが、こうした特殊な使用の場合、むしろ音素の秩序に属するだろう。

この複雑さのために、神話的談話(ディスクール)は言語の通常の使用から、いわば離陸する。


吉本隆明「拡張論」『ハイ・イメージ論II』(福武文庫)

 わたしたちの言語(美)学とソシュール言語学とを隔てているものは、帰するところはこの反復と固定化(すなわち自己表出の発生)であるということができよう。話行為の内部でこの反復と固定化がいわば飽和点に達して、それにたえきれなくなったとき口承文学(神話・伝説)がうみだされるのだし、口承時代の反復と固定化の繰返しにたえきれなくなって爆発点に達したとき、文字が産みだされたものだといえるからである。