柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

中村修二やジジェクのようにと思っていたが

蒼井そら http://twitter.com/aoi_sola
紅音ほたる http://twitter.com/akanehotaru1025
佐山愛 http://twitter.com/AiSayama


マルクス資本論』第三巻(岡崎次郎訳、大月書店)
資本主義的生産の総過程 第二分冊
第五篇 利子と企業者利得とへの利潤の分裂 利子生み資本(続き)
第二九章 銀行資本の諸部分
第三〇章 貨幣資本と現実資本 I
第三一章 貨幣資本と現実資本 II(続き)
第一節 貸付資本への貨幣の転化
第二節 貸付資本に転化させられる貨幣への資本または収入の転化
ある紡績業者が自分の糸を綿花と交換したが、収入をなす部分は貨幣と交換したとすれば、彼の産業資本の現実の定在は、織物業者または場合によっては個人的消費者の手に移った糸であり、しかもこの糸は――再生産のためのものであろうと消費のためのものであろうと――それに含まれている資本価値の定在でもある。
第三二章 貨幣資本と現実資本 III(結び)
 資本主義的生産の基礎は、貨幣が価値の独立な形態として商品に相対しているということ、または、交換価値が貨幣において独立な形態を受け取らなければならないということであって、このようなことが可能なのは、ただ、一定の商品が材料になってその商品の価値で他のすべての商品が計られるようになり、またそうなることによって、この商品が一般的な商品になり、他のすべての商品に対立する特にすぐれた商品になることによってである。
第三三章 信用制度のもとでの流通手段
 一つの社会的総資本のいろいろな成分のあいだの交換行為、たとえば消費手段と消費手段の生産手段とのあいだの交換行為の場合も同じである。これらのものの流通のための貨幣は、すでに見たように、交換者の一方または双方によって前貸しされなければならない。そこでこの貨幣は流通のなかに留まるのであるが、交換が終われば必ずまたそれを前貸しした人の手に帰ってくる。


冬のソナタ」が面白かったのは
著作権的にグレーな部分があったからかもしれない。

著作権が全て合法な作品は面白いだろうか。

リミックス戦争 http://www.nhk.or.jp/frontier/


マルクス資本論』第三巻(岡崎次郎訳、大月書店)
第三三章 信用制度のもとでの流通手段
 一八四七年には、一八四四年の銀行法の停止なしには、「手形交換所はその業務を行なうことはできなかったであろう。」(第五二二一号。)
  第五三〇六号。「手形交換所での差額決済をすませるための貨幣がそこにないような場合には、われわれにとっては、いっしょに集まって自分たちの支払を国庫あてやスミス・ペーン商会あてなどの一流手形で行なうよりほかに、まだなにか方法があろうとは思えない。」
第三四章 通貨主義と一八四四年のイギリスの銀行立法
 「銀行券が兌換可能であり、したがってその実質価値が名目価値に一致していても、金や銀行券から成っている流通の総量(the aggregate currency consisting of metal and of convertible notes)は、前記の理由によってそれらの総量が流通商品の交換価値と金の金属価値とによって規定されている水準よりもふえたり減ったりするのにしたがって、減価または増価することがありうるのである。」(『経済学批判』、一五五ページ。)
第三五章 貴金属と為替相場
第一節 金準備の運動
 {それが社会的な富として実証されるのは、ただ、これらの個人が自分たちの欲望を充たすために質的に違った使用価値を互いに交換し合うということによってである。資本主義的生産では彼らはただ貨幣の媒介によってのみこの交換を行なうことができる。――F・エンゲルス
第二節 為替相場
対アジア為替相場
イギリスの貿易収支
第三六章 資本主義以前
 生産物の商品としての性格が発展していなければいないほど、交換価値が生産をその十分な広さと深さとにおいて征服していなければいないほど、ますます貨幣は、使用価値での富の極限された表現様式に対立して、本来の富そのものとして、一般的な富として、現われる。
 ――「試みに、一つの国民的信用機関を創設し、この機関は、無産の有能者や有功者に資金を前貸はするが、しかしこれらの借り手を生産や消費での緊密な連帯によって強制的に互いに結びつけるのではなく、反対に、彼ら自身に自分たちの交換や生産を決定させる、というようにしてみたまえ。」(C・ぺクール『社会・政治経済学の新理論』、パリ、一八四二年、四三三、四三四ページ。)
中世の利子
利子禁止が協会に与えた利益
第六篇 超過利潤の地代への転化
第三七章 緒論
 土地所有を正当化するものは、一定の生産様式に伴う他のすべての所有形態を正当化するものと同じように、その生産様式そのものが歴史的な過渡的な必然性をもっており、したがってまたその生産様式から生ずる生産・交換関係もそのような必然性をもっているということである。
 これらの生産物が商品であり、ある交換価値をもつ、しかも実現できる、貨幣に転化できる交換価値をもつ使用価値であるのは、ただ、他の諸商品がそれらにとっての等価物がそれらにとっての等価物をなしており他の諸生産物がそれらに商品として相対し価値として相対している範囲のなかだけでのことである。つまり、これらの生産物がその生産者自身のための直接的生活維持手段として生産されるのではなく、商品として生産され、ただ交換価値(貨幣)への転化によってのみ、ただそれらの譲渡によってのみ、使用価値になる生産物として生産される範囲のなかでのことである。


農業生産物がどのように交換されるか。
この観点を意識すると、柄谷行人が考察する
交換様式と人類学(日本の稲作開始など)が
農作物、貨幣、技術、宗教、政治の要素で
結び付いてくると思う。


マルクス資本論』第三巻(岡崎次郎訳、大月書店)
第三七章 緒論
すなわち、商品の使用価値は商品の交換価値の、したがってまた商品の価値の、前提だという法則である。
なぜならば、それと同じ度合いで、農業生産物は商品となり、交換価値となり、価値となるからである。
一方では、一般に、ある一つの生産物の交換能力は、その生産物の外に存在する諸商品が多種多様であることにかかっている。
第二に、このような、彼の労働の社会的性格は、彼の生産物に極印された社会的性格として、その生産物の貨幣性格において、そして性格によって規定されたその生産物の一般的な交換可能性において、現われるのである。


川上未映子 http://www.nhk.or.jp/tr/

わたくし率 イン 歯ー、または世界 講談社

マルクス資本論』第三巻(岡崎次郎訳、大月書店)
第三八章 差額地代 総論
すなわち、使用価値は一般に交換価値の担い手ではあるが、交換価値の原因ではないのである。同じ使用価値でも、もしそれが労働なしで得られるならば、それは交換価値はもたないであろうが、使用価値としてのその自然的な有用性は相変わらずもっているであろう。ところが、他方、物は、使用価値なしには、つまり、労働のこのような自然的な担い手なしには、交換価値をもっていない。