柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

神と人間の差異について

レーヴィットヘーゲルからハイデガーへ』(作品社)

神の認識し作る行為と人間のそれとの違いでもあれば類似点でもあるのは、人間の認識行為がばらばらの諸要素をまとめあげつつ思考すること(コリガーレ コギタティオ)(andare raccogliendo〔拾い集めてまわること〕)であるのにたいして、神の認識行為が(完全に読みとるという意味での)叡知(インテリゲンティア)であるという点にある。


網野義彦『日本社会の歴史 上』(岩波新書

このような通交と戦闘のなかで、朝鮮半島からはさまざまな職能民集団をふくむきわめて多くの人びとが海を渡って列島に移住し、半島社会と列島社会の交流はいっそう活発になった。埴原和郎によれば、列島西部に移住した人の数は、弥生時代の開始から古墳時代までの千年間に、女性も含めて百万人から百五十万人に及んだと推定される。


網野義彦『「日本」とは何か』(講談社学術文庫

しかもこのころの安藤氏の中心人物で「堂塔も多く造りし善人」といわれた安藤五郎が「えびす」といわれたアイヌによって文永五(一二六八)年に殺されたことを、日蓮が建治元(一二七五)年六月の書状でのべている(海保嶺夫編『中世蝦夷史料』三一書房、一九八三年)。

これらの遺物によって、永仁三(一二九五)年に駿河を出発し、北方世界に日蓮の教えを広めるという大志を抱いて北に向かった日持が、おそらく津軽・渡島を経て大陸に渡り、永仁六(大徳二)年には宣化の法華寺安国堂におり、嘉元二(大徳八、一三〇四)年までに法華宗に帰依する男女に支えられ、宣化で布教していたことを明確に知ることができる。

日持 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%8C%81

仁徳天皇(16代、257〜399年)陵 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BB%99%E9%99%B5%E5%8F%A4%E5%A2%B3
応神天皇(15代、201〜310年)陵 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%89%E7%94%B0%E5%BE%A1%E5%BB%9F%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
神武―綏靖―安寧―懿徳―孝昭―孝安―孝霊―孝元―開化―崇神―垂仁―景行―日本武尊―仲哀―応神―仁徳


苅部直『光の領国 和辻哲郎』(岩波現代文庫

ここで和辻は、仁徳天皇が民家から煙が上がらないのを見て徴税を停止したという伝説を取り上げ、「人民の福祉」を確保する社会政策の前例と位置づける。