柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

フェルディナン・ド・ソシュール

フェルディナン・ド・ソシュール "Notes inedites"

言語活動の基盤は名詞によって構成されるのではない。言語的記号は‹それが提示する›……ような一つの概念ではなく、それがむしろ馬や火や太陽のように意味として限定された対象に対応するのは偶然である。このケースがどんなに重要であろうと、それを言語活動の典型とみなすいかなる確実な理由もない、むしろその逆である。(……)そこには言語活動が決定的となるような、無視できず見逃せないある傾向が暗にふくまれている。すなわち一定の対象の名称目録である。まず対象、つぎに記号である。それゆえ(われわれがつねに否定することだが)記号に対してあたえられた外在的基盤であり、また次の関係による言語活動の表象(フィギュラション)である。

    *―――――a
対 象{*―――――b}名詞
    *―――――c

この場合、実際の表象はa―b―cであり、一つの対象の上におかれた*―aのような現実の関係のいかなる認識ももたない。もし一つの対象が、それがどこであれ、記号がその上に固定される項(テルム)でありうるとすれば、言語学は、現在の頂点から土台まで、ただちに崩壊するであろう。


フェルディナン・ド・ソシュール フルールノア宛 一八九五年―一八九八年
テオドール・フルールノア『インド諸国から火星へ』

彼女が話す言語が実証的にいって‹サンスクリット語›であるかという問いには、もちろん‹否›と答えねばならない。いえるのはただ次のことである。1、これはさまざまなシラブルのごたまぜであるが、その中に八シラブルから一〇シラブルまでの意味をもった文の断片が現われることは疑いない。2、上述のシラブル以外は理解不可能のものだが、サンスクリット語の性格には反していない。つまり、サンスクリット語の単語の一般的形態に反したり対立するような形はとっていないのである。

もっとも驚くべきことは、シマンディーニ嬢〔これが、スミス嬢がインドに生まれかわっているときの彼女の名前である〕がプラクリ語ではなくサンスクリット語を話すことである〔インド諸国では女性はサンスクリット語ではなくプラクリ語を話す〕……。ところでシマンディーニの話す言語は、それと認めることがはなはだ難しいサンスクリット語であるかもしれないとは考えられても、プラクリ語では絶対にない。

suminaという語は、いかなるものをも思い起こせない。attamanaという語から思いつくのはせいぜいフランス語の魂(ame)にあたるatmanam(atmaの対格)、という語である。しかし、急いでつけ加えておくが、このattamanaという語が現われる文脈では、そこでサンスクリット語のatmanamという語を使うことは思いもよらないことであり、それに第一このサンスクリット語の単語が魂という意味を表わすのは、哲学的言語においてのみであり、その場合、普遍的魂か、あるいは他のやはり学問的な意味を表わすのである。

二つの重要な結論がある。
1、問題のテクストは‹二つの言語›を交えて作られたものではない。テクスト中に現われる単語は、ラテン語の単語ではないとはいえ、そこに第三の言語、たとえばギリシア語、ロシア語、あるいは英語が介入してくるようなことはない(……)。2、またそのテクストの価値は、‹ラテン語の性格に反するなにものをも提示しないこと›に存する。テクスト中に現われる語が、意味をまったくもたず、なにものにも対応しない個所においてすら、そうなのである。それでは、ラテン語を離れ、スミス嬢のサンスクリット語に話を戻そう。彼女の話すサンスクリット語は、‹子音fを全然›含まない。これは消極的な形ではあるが、考慮に値する事実である。実際‹f›の音は、サンスクリット語には無縁なのである。ところで、もし出まかせなやりかたでサンスクリット語の単語をこしらえようとしたなら、‹f›の音をもった語を作り出す可能性は、そうでない場合の二〇倍もあるだろう。もしサンスクリット語に‹f›の音が無いという事実を知らなければ、この子音の使用は、他の子音の使用と同様に正当なものと思えるだろうから。

そこに‹第三›の言語、たとえばギリシア語、ロシア語、あるいは英語が介入してくるようなことはない。

シマンディーニは次の文をいいたいのだと仮定しよう。「ガナパーティの名においてあなたを祝福します。」(Je vous benis au nom de Ganapati)シヴルーク的状態にある彼女の脳裏に決して浮かんでこない考えは、この文をフランス語にことばで話そうとすること、より正確にいうなら、フランス語の単語として発音しようとすることである。この時に、フランス語の語自体は、あくまで彼女がいおうとすることの主題、基体(シュプストラトゥム)であり続けている。彼女の精神がしたがっている法則は、彼女に馴染深いこういう語のそれぞれはエキゾティックな感じの代替物に置き換えられると、いうものである。どんなふうに、ということは重要ではない。なによりも、そしてただ単に、その代替物が、彼女にフランス語のように見えてはいけないのである……。


フェルディナン・ド・ソシュール 『ニーベルンゲンの歌』および他の伝説の研究に当てられた第二の草稿
一九〇九年―一九一〇年
ダルコ・シルヴィオ・アヴェッレ "La semiologie de la narrativite chez Saussure"

叙事詩の作者、あるいは歴史の作者が、二つの軍勢の間の戦闘を、そしてとりわけ大将同士の戦いを物語る。まもなくこの二人の大将だけが問題にされるようになる。そして大将Aと大将Bの一騎打ちは(不可避的に)象徴的なものとなる。なぜなら、このただ一つの戦いが、戦闘全体の結果を表わすのだから(……)。戦闘全体が大将同士の一騎打ちに還元されてしまうことは、この戦闘の話と話との間に時間の経過があるために生じる記号論的伝達につきものの自然な結果である。象徴は、結局、事が済んでからやってきて、誤った判断を下す批評家の想像の中にしか存在してはいないのである。

人は象徴というものがあると考えるかもしれない。ところが象徴とは、初めはまったく直接的な意味をもっていた語の上に加えられた単なる伝達のミスに過ぎないのである。――象徴の創造というものは存在する。しかし、それは伝達の自然な誤りの産物なのである。

最初は象徴ではなかったと説明されるような象徴は認めることができる。(……)象徴的解釈は批評家だけのものにすぎない(……)。事件の直後にこの事件が物語られるのを聞く人にとっては、古代ギリシアの吟遊詩人が、その師匠から語るべき詩を受け継ぐ場合と同様に、ハーゲンがライン河に財宝を投げこんだということはまったく真実なのである――したがってそこには結局、なんらの象徴も存在しはしない。そもそもの初めにも象徴などというものが全然なかったのと同様に。

象徴を用いようという意図は、その間いかなる瞬間にも存在しなかった。

象徴の創造は、いつも非意図的である。

象徴はすべての種類の記号と同様、事物間の非意図的関係を生み出した発展の結果なのである。象徴はつくり出そうとしてつくり出せるものではなく、またただちにそのようなものとして認められるものでもない。

――伝説は、意味を明確にするよう方向づけられた一連の象徴によって構成されている。
――これらの象徴は、そうとは知らぬまま、他の象徴群と同じ変遷、同じ法則のもとに置かれている。他の象徴群とは、たとえば言語の単語である。
――それらはすべて記号学に属している。


フェルディナン・ド・ソシュール 一般言語学講義 一九〇七年―一九一一年
R・エングラー "Cours de linguistique generale"

一一三一、二、言語記号は完全に恣意的であるのに対し、いくつかの礼儀作法の動作は(……)この恣意性を離れ、象徴に近づく。(……)一一三七、二、象徴の特質は、恣意性に徹しきらないところにある。それはうつろではなく、観念と記号の間に、わずかながらも結びつきの残存がある。一一三八、二、法(正義)の象徴である天秤。

二七六、四、記号の体系をなしているのは言語だけであるというわけではない。しかし、それは諸記号体系中もっとも重要なものなのである。

リードリンガー
二九〇、二、しかしすぐにいっておかなければならないが、言語は、この科学〔記号学〕の主要な位置を占めその模範となるだろう。しかし、理論的にはそうなるのはあくまで‹たまたま›なのであって、言語は記号の一つの場合でしかないのである。

一一二八、二、記号学が組織された暁には、恣意性をもたない体系も、記号学の管轄に属するかどうか検討しなければなるまい。一一二九、二、いずれにせよ、記号学はもっぱら恣意的な体系を取り扱うことになるだろう。

二八八、六、セシュエ――記号学は記号と象徴の両方を研究するのだろうか。バイイ――ド・ソシュールはどこかで答えている。まだ検討が必要だ、と。

二七六、二、ラングの中においては、記号は直接に観念を喚起する……。

二七六、五、ほとんどすべての制度(アンスティテュション)は、その根底に記号をもっている。しかし制度は直接的に事物を喚起しない。


フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』(バイイ、セシュエ)

それゆえ、記号学的手順の理想を実現するには、まったく恣意的な記号のほうが、他よりすぐれている、ということができる。それゆえにこそ、表現体系のうちでもっとも複雑であり、もっとも流布している言語がまた、すべてのうちでもっとも特質的なのである。この意味において言語学は、言語がたとえ一個の特異体系にすぎなくても、全記号学の模範となりうるのである。