柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

7月14日、社長と西新宿・月の雫

sasaki_makoto2006-07-27

日曜にWOWOWNANAを見た。
作者はチェッカーズやボウイのファンなのだろう。


思えば、ボウイは氷室京介がライバルバンドの布袋寅泰
誘って結成されたというエピソードは少女マンガ的だ。


先にプロになったが活動に不満のあった氷室が
日比谷野音のRCサクセションのライブを見て
布袋を六本木に呼び出したという…。



姉はロラン・バルトの『明るい部屋』を読んだ。
多分デリダとは違う読み方で。


民数記』第三十五章第九節

主はモーセに言われた。「イスラエルの人々に言いなさい。あなたがたがヨルダンを渡ってカナンの地にはいるときは、あなたがたの町を選んで、のがれの町とし、あやまって人を殺した者を、そこにのがれさせなければならない。これはあなたがたが復讐する者を避けてのがれる町であって、人を殺した者が会衆の前に立って、さばきを受けないうちに、殺されることのないためである」


デリダフロイトに公正であること」『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』(國分功一郎訳、岩波書店

問題となっている二重性、この螺旋状の二重性は、欲動の二重性について、死の欲動について、そして支配欲動とおそらくは無縁ではない死の欲動について、さらには、生の中の最も生き生きとしたもの、生の生き残りそのものとも無縁ではない死の欲動について語るフロイトが、あらゆる一元論に対立させようとしたものではないだろうか?