柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

マルクスとFREEDOM

sasaki_makoto2006-10-23

ドゥルーズ『襞』を読み進み、
バロック・ダンスの衣裳の「襞」の事でもあるかと。


大友克洋の『AKIRA』(”爆発の金田”)は
ヤングマガジンに連載時は、扉絵やコマ絵で
描かれた衣服、布の曲線の襞が印象的だったのに対し、
単行本の最終巻では崩壊するビル群が
多くの直線によって執拗に描かれていた。


ツイン・ピークス』でもレッド・ロッジの襞。


『襞』の最終章「新しい調和」では
バロック絵画に描かれた布の襞について語られている。


マルクス「フランスの内乱 ヨーロッパおよび合州国の全協会員に向けて 一八七一年五月三〇日」
マルクス・コレクションVI』(辰巳伸知訳、筑摩書房

 奇妙なことだ。過去六〇年にわたって労働者の解放という問題についてはありとあらゆる大言壮語がならべたてられ、ありとあらゆる膨大な文献が書かれてきたにもかかわらず、労働者が少しでもこの問題を自ら本気でとりあげようとするやいなや、資本家階級と賃金奴隷の身分という両極(地主はいまや資本家の匿名組合員にすぎない)をそなえた現代社会を代弁する人々は、よってたかって弁解がましい言葉をならべたてるのである。あたかも資本主義社会はまだきわめて純潔な状態にあり、さまざまな矛盾はまだ展開しておらず、虚妄はまだ打破されておらず、汚れた現実はまだ暴露されていないかのように。彼らは叫びたてる。コミューンはあらゆる文明の基盤である財産所有を廃棄しようとしている! と。その通りだ、諸君。コミューンは、多数者の労働を少数者の富にしてしまうような階級的所有を廃棄しようとしたのだ。それは、収奪者たちからの収奪をめざした。それは、今日主として労働を奴隷化し搾取する手段となっている生産手段、すなわち土地と資本を、自由な協同労働のための純然たる手段へと変えることによって、個人的所有を実現しようと欲した。−しかし、それは共産主義であり、「不可能な共産主義」だ! という。ところが、支配階級のなかでも現在の体制の継続が不可能であることを認めるだけの知性をもった人々−その数は多い−は、協同組合的生産のおしつけがましい声高な使徒になってきたのである。もし協同組合的生産が欺瞞や陥穽にとどまるべきでないのなら、もしそれが資本制にかわるべきものであるなら、もし協同組合の計画に基づいて全国の生産を調整し、そうすることによってそれを自らの統制のもとにおき、資本主義的生産の宿命である不断の無政府状態と周期的な痙攣を終わらせるべきなら−諸君、それは共産主義、「可能な」共産主義以外の何ものであろうか!


クロード・レヴィ=ストロース『神話論理I 生のものと火を通したもの』
早水洋太郎訳 みすず書房

序曲
I
II
第一部
主題と変奏
I ボロロの歌
II ジェの変奏(六つのアリアとそれに続く一つのレチタティーヴォ
第二部
I 行儀作法についてのソナタ
II 短い交響曲
第三部
I 五感のフーガ
II オポッサムカンタータ
第四部
平均律天文学
I 三声のインヴェンション
II 二重逆転カノン
III トッカータとフーガ
IV 半音階の曲
第五部
三楽章からなる田舎風の交響曲
I 民衆的主題にもとづくディヴェルティメント
II 鳥たちの合唱
III 結婚