柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

高城剛の「目下の恋人」

sasaki_makoto2006-11-12

Tokyo Dance Music Festival 2006 http://www.tokyodancemusicfestival.jp/


青木隆嘉「訳者あとがき」ハンナ・アーレント『思索日記II』(法政大学出版局

これは、法や制度によってであれ、「世界」がいかにも人間によって「製作」されたかのような誤解を避けるとともに、「世界」がプラクシスにおいて生成する「出現の世界」であることを示すことである。

Hannah Arendt Papers(HA Papers) http://memory.loc.gov/ammem/arendthtml/series.html


法政大学出版局

カント政治哲学の講義 H・アーレント著/R・ベイナー編/浜田義文監訳 3200円
アーレントマッカーシー往復書簡 C・ブライトマン編/佐藤佐智子訳 6600円
アレントハイデガー 〈政治的なものの運命〉 D・R・ヴィラ/青木隆嘉訳 6200円
政治・哲学・恐怖 〈ハンナ・アレントの思想〉 D・R・ヴィラ/伊藤・磯山訳 4600円
ハイデガー 〈ドイツの生んだ巨匠とその時代〉 R・ザフランスキー/山本尤訳 6800円
ハイデガーと解釈学的哲学 O・ぺゲラー/伊藤徹監訳 4300円
ハイデガーと実践哲学 O・ぺゲラー他/下村・竹市・宮原訳 5500円
ハイデガーヘブライの遺産 M・ザラデル/合田正人訳 3800円
ハイデッガーデリダ H・ラパポート/港道・檜垣・後藤・加藤訳 3800円



上田正昭『日本の歴史2 大王の世紀』(小学館

 洛東江下流流域の弁韓一二国においても、伽耶諸国が発展し、南伽耶(金海)・阿羅伽耶(感安)・非火伽耶(昌寧)・大伽耶(高霊)・古寧伽耶(感昌)・星山伽耶(星州)・小伽耶(固城)などはそれぞれに連合した。伽耶土器とよばれる土器製法の技術や伽耶地域の遺跡から出土して鉄挺などにも、伽耶諸国における文化の発展がしのばれる。

 本格的な朝鮮関係記事の冒頭をかざるのが、崇神天皇六五年七月の任那国の朝貢記事である。任那国のことはこれを初見として、『日本書紀』にはつぎつぎと関係記事が登場し、雄略天皇八年二月の条や欽明天皇二年四月、同五年二月の条などには任那日本府のことがみえる。
 そしてこれらを論拠に、三・四世紀の段階から加羅倭国の属領となったとする考えがしだいに有力な見解となった。しかしこのような見解は、朝鮮を蕃国視した『日本書紀』の史観にもとづくもので、それをそのまま是認することはできない。現在のところ、朝鮮側の文献や資料、あるいは遺跡や遺物においてこれを明確に立証することは困難だからである。日本中心主義の歴史の見かたや考えかたで、朝鮮の歴史を認識するのは、朝鮮中心主義の歴史の見かたや考えかたで歴史を認識するのと同様に、それは学問的不毛につながりやすい。

任那という国名は『古事記』にはみえない。これは『日本書紀』がしばしば用いるところであり、しきりにでてくるのは雄略天皇の巻すなわち巻第十四以後である。そしてその用例を検討すると、欽明天皇二三年正月の文注に引用する「一本」のように伽耶諸国の総称として用いているような例があるかと思うと、雄略天皇八年二月の条の「任那王」とか、継体天皇二三年四月の条の「任那王」のように、伽耶諸国のなかの特定の一国をさして用いるばあいもある。
 前掲の崇神天皇六五年七月の条の「任那国」は総称というよりも、伽耶諸国のなかの一つをさすといえよう。それなら特定の国を意味して用いたと考えられる『日本書紀』の任那国とは、いったいどこをさすのであろうか。
 ところが『日本書紀』自体においてそれがはなはだあいまいなのである。したがって、その引用箇所のおのおのに即して判断するほかはないのだが、たとえば継体天皇二三年四月の条のばあいの「任那王」は「加羅王」と同一視されているので、加羅の王ということになる。それならその加羅とははたしてどこか。『三国遺事』が引用する「駕洛国記」の神話には、王妃来臨の地名として主浦nirn-nae那のもとで、金官加羅(現在の金海地方)とする説(三品彰英日本書紀朝鮮関係記事考証』上)は説得的である。
 しかしふしぎなことに、肝心の朝鮮の文献・資料には、あまり任那という用語が登場しない。のちの章にふれる高句麗の長寿王が先王たる広開土王(好太王)の功績をたたえて四一四年の建立した広開土王碑文の庚子の条に「任那加羅」とあり、『三国史記』の列伝強首の条に「任那可良人」とあり、さらに新羅末の景明王の代の撰になる鳳林寺真鏡大師碑に「其先任那王族」とあるたった三例である。
 そしてそれらはいずれも五世紀以後に属している。もっとも五世紀の倭の五王の中国南朝宋に対する遣使朝貢について記す、梁の沈約(五一三年没)が編集した『宋書』の夷蛮伝倭国の条には、元嘉二八年(四五一)倭王済にかんして「使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事を加え、安東将軍はもとの如く」などとみえる。
 したがって、中国史書の『宋書』にも「任那加羅」という表現があったことになる。だがこのばあいは、任那加羅とをわけて二国としていることに注意すべきであろう。いずれにしても『日本書紀』が好んで用いた任那は、朝鮮ではきわめてまれにしか使われていないのである。そして朝鮮の文献や資料では加羅を限定して任那加羅あるいは任那加良と表現していることがわかる。
日本書紀』は垂仁天皇二年是歳の条の分注に「意富加羅国王」という表現を用いている。このばあいの「意富加羅」は金官国すなわち任那加羅をさす。「駕洛国記」に首露降臨神話に「国、大駕洛を称す」とある大加羅であって、任那よりはこの表現のほうが朝鮮の関係伝承に忠実であったと考えられる。ただし複雑なのは、別に慶尚南道高霊の地に所在した加羅を大加羅あるいは大伽耶というばあいもあるので、その用例については、その史料ごとに検討して区別しなければならない。


欽明天皇二年四月の条 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/05410401
欽明天皇五年二月の条 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/05440201
欽明天皇二三年正月の条 http://d.hatena.ne.jp/ORIGIN/05620101