柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

前園や華原朋美のように

sasaki_makoto2007-06-30

96年3月、サンタモニカ(hideがいたかもしれない)から
バスでビバリーヒルズに行った時
(その前に同路線のバス・ジャックを描いた
映画「スピード」を見ていたら乗ってなかった)、
華原朋美「I'm proud」のビデオ撮影が
屋上で行われたビルの近くを通ったと思う。


その年の9月、横浜アリーナ
マイケル・ジョーダンのイベントを観たが
前園が来ていたようだった。



ソシュール「一般言語学講義」(丸山圭三郎訳)

個々人には分節言語能力と呼ぶことのできる一つの能力がある。……しかし、これはあくまで能力に過ぎず、そとから与えられるもうひとつのもの、すなわちラングなしにこれを行使することは事実上不可能であろう。……ランガージュは抽象的なものであり、それが現前するためには人間存在を前提とする。……このようにランガージュ能力と区別することによって、われわれはラングに〈産物〉の名を与えることができることが分かる。これは社会的産物なのである。ランガージュは、常にラングによって現前すると言えるであろう(コンスタンタン)。


結論は次のようになる。二つの対象、ラングとパロールが、お互いを前提とし、その存在は他の存在なしにありえないことも真実なら、それとは反対に、両者の特質があまりにも似通っていないので、それぞれ別の理論を必要とするということも事実である。この二つを一緒にしたものに言語学の名を冠するべきか、それともラングの研究だけに言語学の名をとっておくべきか? われわれは、ラングの言語学パロール言語学を二つ別々に考えることができるのである。こうは言っても、ラングの言語学をあつかう時、パロール言語学に少しでも立ち入ってはならないと結論してはいけない。そうすることは有用であろう。ただ、その仕事は、隣接領域から理論を借用するということなのだ(第三回、コンスタンタン)。


語や事項から出発して体系を抽き出してはならない。そうすることは、諸事項が前以って絶対的価値を持ち、体系を得るためには、それらをただ組み立てさえすればよいという考えに立つことになってしまうだろう。その反対に、出発すべきは体系からであり、互いに固く結ばれた全体からである(コンスタンタン)。


価値という言葉をめぐってわれわれが述べたことは、次の原理を措定することによっても言い換えることができる。すなわち、言語の中には(つまり一言語状態のなかには)差異しかない。差異というと、われわれは差異がその間に樹立される積極的(ポジティヴ)な事項を想起しがちである。しかし、言語の中には積極的な事項をもたない差異しかない、という逆説である。そこにこそ逆説的真理があるのだ(コンスタンタン)。