柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

そろそろ仕事が決まるかもしれません

sasaki_makoto2009-02-28

カント『実践理性批判』第一部第一編一章七節 定言命題

Handle so, daβ die Maxime deines Willens jederzeit zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten konne.
あなたの意志の格率が、つねに同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ。


レーヴィット『共同存在の現象学』(岩波文庫

daβ die Maxime des eigenen Willens zugleich als Prinzip einer allgemeinen Gesetzgebung gelten konne.
じぶんの意志の格率が同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ。

人間は――カントとともに語るなら――たんに「目的」であるばかりでなく、「同時に」そして本質的に、自身のために現に存在する「自己目的」である。

人間はそのほんらいの規定からすれば自己目的であるが、人間は他方じじつ、手段(物件)であると同時に自己目的(人格)として規定される。

人間が道徳的・非道徳的に、すなわちほんらい人間的ないし人格的に現実存在しうるのは、したがって、人間が人格であると同時に物件(res corporalis〔有体物〕)であるからにほかならない。

 『道徳形而上学の基礎づけ』にあってカントは、人格であると同時に物件であり、自己目的(目的)であると同時に目的に対する手段であるという、人間それ自身にそくした区別を、以下のような道徳性の諸規定にそくして分節化している。

 定言命法の可能性はひたすら、人間が「ただたんに、あれこれの(目的を定立する)意志のために任意に使用される手段としてばかりでなく」、同時に目的としてそれじしん現実存在することにもとづいている。ここでカントは、いつものように、「ただたんに〜ばかりでなく」と「同時に」を、字間を空けて印刷して強調する。その存在がただ生まれつき、理性を欠いたものと規定されている生物は、人間にとってはたんなる手段として、純粋に物件的なかたちで現に存在している。これに対して人間は、「理性的な本性」を有するものとしては、手段(物件)であると同時に自己目的(人格)として実在している。


レーヴィット「ヨーロッパのニヒリズム

かれらはふたつの階で暮らしているようなものである。すなわち、日本的に感じたり考えたりする、したの、基本的な階と、プラトンからハイデガーにいたるヨーロッパの学問がならべられている、うえの階である。