柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

自己にとって表出とは何か

ソシュール『一般言語学講義』

 通時論的なものと共時論的なものとの対立は、あらゆる点に現われる。
 たとえば――もっとも見易い事実から始めるならば――それらには同等な重要性がない。この点からすれば、共時論的部面のほうが他を抑えていることは明らかである、話す大衆にとっては、これこそ真正・唯一の実在だからである。言語学者にとってもそのとおり。通時論的眺望のうちに身をおくときは、かれがみとめるものはもはや言語ではなくて、それを更新する一連の事件である。よくひとは、ある与えられた状態の発生を知ることほど大切なことはない、と断定する。それはある意味では正しい。その状態を形成した条件は、それの真の性質を明らかにしてみせ、ある種の妄想からわれわれを防いでくれるからである。しかしこのことはまさに、通時態がそれじたいのうちに目的をもたないことを、証するものにほかならない。それについては、かつてジャーナリズムについて言われたことが言える。なんでも屋だが、足を洗うことが大切。
 両者の方法もまた相違する、そのしかたは二様である。
 a 共時態は一つの眺望しか知らない、すなわち話手のそれである。その方法は、かれらの証言を集めることにつきる。ある事物がどのていど実在であるかを知るには、それが主体の意識にとってどのていど存在するかを探究せねばならないであろう。またそれで充分であろう。これに反して、通時言語学は二つの眺望を識別せねばならない。一は展望的(prospectif)なもので、時の流れを追うもの、他は回顧的(retrospectif)なもので、それをさかのぼるものである。