エド・サリバン、東京裁判
ジル・ドゥルーズ「ノマドの思考」『ニーチェは、今日?』(ちくま学芸文庫)
とはいえ、あらゆるコードをもつれさせることは、もっとも単純なエクリチュールの水準でも、そして言語活動(ランガージュ)の水準でも容易なことではありません。目下のところ似たような例としては、カフカの場合しか思いつきません。プラハのユダヤ人たちの言語的状況との関連においてカフカがドイツ語についておこなったことです。すなわち、彼はドイツ語でドイツ語にたいするひとつの戦争機械を組み立てました。不確定性と簡潔性によって、彼は今まで決して聞かれることのなかった何かをドイツ語のコードにそって通過させるのです。ニーチェ自身は、自分をドイツ人にたいするポーランド人とみなしていたか、あるいはそう望んでいました。彼は、ドイツ語でコード化できない何かを通過させることになるひとつの戦争機械を組み立てるために、ドイツ語を略取したわけです。
農村的共同体からなる領土はその中心部において、書記や神官や役人を率いた専制君主の官僚機械に支配され、固定化しているのは確かです。しかし周辺部では、共同体はもうひとつの種類の冒険(アヴァンチュール)に、今度はノマド的なもうひとつの種類のまとまりに、しかるべきノマド的な戦争機械に組み込まれていて、超コード化されるままでいる代わりに脱コード化するわけです。すなわち、考古学者らが私たちに馴染ませている考えでは、このノマド的生活様式は最初の状態ではなく、定着した諸集団に突然生じる冒険として、外からの呼びかけ、運動としてみなされます。戦争機械をもつノマド的生活者は、行政機械をもつ専制君主と対立します。外在的なノマド的まとまりは、内在的な専制的統一性と対立するわけです。しかしながら、両者は非常に相関的でたがいに浸透し合っているので、専制君主の課題はノマド的戦争機械を統合し、内在化することであり、ノマド的生活者の課題は征服のなったその帝国になんらかの行政機関をつくり出すということになるでしょう。
哲学的言述はいつも、法、制度、契約といったものと本質的関係をむすんでいました。それらは、〈主権者〉=〈君主〉(スヴラン)の問題を構成し、専制体制からデモクラシーにいたる定住民の歴史を貫いているものです。《記号表現=意味するもの》(シニフィアン)は、まさしく専制君主の哲学的な最後の転身です。ところで、ニーチェがこのような意味での哲学に属さないとすれば、それはおそらく彼がなんらかの反哲学として別なタイプの言述を構想した最初の人であるからです。すなわち、何よりもノマド的な言述であり、その述べ立ては行政的な合理的機械、つまり純粋理性の官僚としての哲学者たちによってつくり出されるのではなく、ひとつの移動的な戦争機械によってつくり出されるわけです。
今日の革命的な問題は、党派や国家装置の、専制的で官僚的な組織化に陥ることなく、いくつかの局部的な闘争のまとまりを見出すことであるのはよく知られています。すなわち、国家装置をつくり直すのではないような、なんらかの戦争機械、そして内的な専制的統一性をつくり直すのではないような、外との関係におけるひとつのノマド的まとまりです。ここにこそ、おそらくニーチェのもっとも深いところ、哲学との彼の断絶の真価を示すものがあります。それはアフォリズムのなかに現われるような、思考をひとつの戦争機械にしたこと、思考をひとつのノマド的に可能な力にしたということです。