柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

11月1日は吉祥寺パルコで本を買おう

フェルディナン・ド・ソシュール

書簡草稿

ペンを持つことに病的なまでの恐怖を抱いていること、そして私がその執筆によって仕事の価値にまったく見合わない、想像を絶する責め苦を味わっていることを、あなたに告白しなくて済むのだったら、〔……〕はおよそ理解不可能です。
 こと言語学に関して、どんな明晰な理論であっても、それが明晰であればあるだけ、言語学では言い表せないという事実に鑑みれば、私にとってそのことはさらに増長します。なぜというのも、実際この学問においては明晰な観念に準拠した用語がなんであれひとつとして存在せず、そういったわけでひとつの文章のはじめから終わりまで五回でも六回でも〔……〕をやり直したくなるからです。

ノート

 言語(ラング)は言説(ディスクール)のためにのみ創られている。しかし言語と言説を分け隔てるのはいったい何なのか、また言語が言説として活動に入ると、ある瞬間に言えるようになるのは何をもってなのか。
 様々な概念があって、言語に備わっている(つまり言語的形態を纏っている)。たとえば牛、湖、空、赤、悲しい、五、割る、見る、など。どの瞬間に、またどのような操作によって、それらのあいだに打ち立てられるどのような作用によって、どのような条件によって、これらの概念は言説を形成するのか。
 このように並べられたこれらの語は、それが喚起する観念によっていかに豊かであろうとも、ある個人にとって、別の個人がそれらの語を発することによってその人に何事かを意味しようと欲しているとは映らないであろう。言語のなかに備えられた辞項を使って何事かを意味しようと欲しているという観念をもつためには、何が必要なのか。これは、言説とは何かを知るということと同じ問題であり、一見すると答えは簡単である。言説とは、それがいかに初歩的なものであろうとも、私たちが知らないやり方であろうとも、言語的形態を纏って現れてくる概念二つに絆を設けてやることにある。言語はといえば、個々別々の概念をあらかじめ現実化しておくだけである。それらの概念は、思考の意味が生じるようにと、互いに関係づけられるのを待っているのである。


 ――伝説は一連の諸象徴で成り立っている。これは意味を明確にすべき。
 ――それらの象徴は、図らずも、他の系列の象徴、例えば言語(ラング)に属する語のような象徴と同じ変転、同じ法則のもとに置かれる。
 ――それらすべてが記号学の一部をなす。
 ――象徴は固定されたままでなければならないとか、際限なく変わらなければならないなどと想定する方法はない。おそらく象徴はある制限内で変わるはずだ。
 ――ひとつの象徴の同一性は、それが象徴となった瞬間から、つまりその価値をそのつど決める社会集団のなかに放たれた瞬間から、けっして固定されえない。
 たとえばルーン文字のYはひとつの「象徴」である。
 その同一性は容易に手に取ることができるもののように見えるし、それが次のようなものとしてあるということをことさら確証するのは、およそ馬鹿げているとも思われる。すなわち、それはYという形態をもち、Zと読まれ、アルファベットの八番目に数えられる。そして神秘的にzannと呼ばれ、しまいにはときとして語の一番目として引合いに出される。
 しばらくすると、……それはアルファベットと一〇番目の文字になる……しかしここではすでに、それはひとつの単位=統一体(ユニテ)であることを仮定し始めており〔……〕
 それでは同一性はどこにあるのだろうか。一般にひとは、まるでそれが実際奇妙な事柄であるかのごとく、微笑みをもって答えとなすのだが、その事柄の哲学的射程には気づいていない。それがまさしく言わんとしているのは、あらゆる象徴は、ひとたび流通のなかに投げ込まれるやいなや――ところでいかなる象徴も、流通のなかに投げ込まれているという理由でしか存在しないのだが――その次の瞬間にその同一性が何に存しているかを言うことが絶対にできなくなるということである。
 こうした一般的精神をもってして、どういうものであれ伝説の問題に取り組むことにする。なぜなら、それぞれの登場人物は――ルーン文字とまったく同様に――その、(a)名前、(b)他のものに対する位置、(c)性格、(d)役割および行動に様々な変容が認められるひとつの象徴だからである。ひとつの名前が移し換えられると、それにともなってその行動の一部が移し換えられたり、またその逆もありうる。あるいはドラマ全体がこの種の偶発事によって変化したりする。
 したがって原理上は、変遷・変化の全容が計り知れないことに鑑みれば、足跡の追求を純粋に断然せねばなるまい。しかし実際には、時間的・空間的隔たりが大きくとも、足跡の追求を比較的期待できることがわかる。


私の主張は[……]特殊かつ明確で、体系を欠くものである。テセウスの冒険を、テセウスの冒険のみを含む一冊の書が、「ゲルマン」英雄伝説の主要な分岐のうちのひとつの基盤にあった。この伝説のそれ以外の要素は別の源泉に由来する。その源泉は純粋にゲルマン的であり、その伝説が語る諸々の出来事そのものによって歴史的にゲルマン的でさえある。


ノート

 伝説と歴史のあいだに完全な一致を想定しようとする者などいまい。特定の一群の出来事が伝説を生み出したというこの上なく確実な証拠があったとしてもだ。何をするにしても、しかも明白な証拠をもってするにしても、決定的なものとしてあるいは説得力のあるものとしてここに介入しうるのは、ある程度の近似値でしかない。しかし、どの程度の近似値なのかを測定してみる価値は十分にある。私たちが試みたのとは異なる歴史のまとめ方が、伝説の要素ことごとくをまったく同程度に説明しているか否かを見とどけること、これは私たちの説(テーゼ)にきわめて深く関わってくるひとつの試金石である。そのような領野では厳密な論証が不可能なので、少なくとも自然で無視できないある種の検証とみなされてもいい試金石のひとつなのである。

 注記。伝説は可変的な、すなわち変容を被る諸事物を含み込んでいるが、そうした事物すべてと並んで、同じ資格として、行動の動機が見出される。同様に、動機(モチーフ)は同じままであるのに、行為の性質が変化することがしばしば見受けられる。たとえば――

 おそらく認定するのがきわめて難しいであろうと思われる、伝説の歴史的変容二種。
 1、名前の置き換え。
 2、行動は同じままで、その動機(あるいは目的)が変転する。

 ――そのつど、以前のものについての記憶が失われることによって、あるいは別の仕方で、伝説をまとめる詩人はしかじかの場面にたいして、もっぱら演劇に固有な意味での小道具しか取り集めない。役者が舞台を去ったあとにあれこれの小物が残っている。たとえば床の上の花や、記憶のなかにとどまっていて多少とも過去に何が起こったかを物語ってはいるが、部分的なものでしかなく、〔……〕に余韻を残す[  ]など――

 ――著者あるいは語部(かたりべ)が、彼以前に語られていたことを、できるかぎり踏襲しようとする意図をもっているということを、特別な場合を除いて、ゆめゆめ疎かにしてはならない。この点に関しては、根深い保守的傾向が伝説の世界全体をくまなく支配している。
 しかし記憶の欠如した想像力は、かえって〔記憶が欠如してさえいなければ〕伝統にとどまろうとする意志を伴った変化の主たる要因である。
 言語的領域では、それとまったく同様に、記憶の欠如によってそれまでになかった一群の語百花繚乱に形成されることがある。植物の名前、鉱物の名前、小動物の名前といった語彙論的領域などがそうである。[  ]だけに知られていて、語る主体の集団には中途半端にしか習得されておらず、そしてその名が絶えることなく伝承されるなら、それは幾通りかの緻密な民間語源説に行き着く普通の語とはまったく異なる伝承法則のもとに置かれる。


 伝説と言語(ラング)がともに気高いものとなっているのは、どちらも手許に提供されるいくつかの要素と任意の意味しか使用できない定めなのに、それら要素を再結合し、絶えずそこから新たな意味を引き出すからである。ひとつの重大な法則が支配している。すなわち、不活性な要素の組み合わせではないものが〔新たな意味という〕大幅の花を咲かせる様はどこにも見あたらない。思考が消化し、命じ、注文し、しかしそれなしで済ますことのできない、不断の糧とは別のものが素材となっているような状況はどこにも見あたらないのである。伝説についてのこのような考え方を誤りと決めつける前に、よくよく考えてみるべきであろう。
 伝説がひとつの意味に始まり、それがいま現在もっている意味を最初の起源からもっていたと想像すること、あるいはむしろ、その伝説がとにかく何でも好き勝手な意味をもちえたと想像すること、これは私の手に余る営為である。実はそのような営為は、その伝説で資材となっている要素が幾世紀を通じて決して伝承されなかったということを前提にしているように見える。というのも、資材となる要素が五つ六つあるとして、それらを別々に作業する五、六人に与えて組み合わせをやらせてみると、ものの数分で意味が変わってしまうからである。


ヴュフラン、一九〇六年七月一四日。

 前略
 先日私がそちらに書き送ったことに関して筆を執っていただきありがたく存じます。あなたが行っているきわめて正当な考察にたいしてお答えする前に、まず私が申し上げることができるのは、いま私は戦線すべてにわたって勝利を手にしているということです。怪物のような難問に立ち向かうこと二カ月、しかもそれを相手にもっぱら手探りで作業するしかありませんでしたが、しかしここ三日というものはもう大砲でもぶちかます勢いで前進するばかりです。長短短脚(ダクティリック)(あるいはむしろ長長脚(スポンダイック))韻律について私が書いていたことはやはりそうなのですが、しかしいま私がサトゥルヌス詩を解く鍵を手にするに到ったのは、頭韻を通してなのです。これは従来想像されていたよりはるかに複雑なものです。
 サトゥルヌス詩において従来注目されていた頭韻(および脚韻も)という現象はそのすべてが、より一般的な、というよりむしろまったく全体的なひとつの現象の微々たる一部分にすぎません。サトゥルヌス詩の各詩行の音節全体は、第一音節から最終音節にいたるまで、ひとつの頭韻法則に従っています。しかも、子音たったひとつでも、――いわんや母音たったひとつでも、――まして母音の長さたったひとつでも、綿密に勘定されないことはありません。結果は実に驚くべきものでありまして、これらの韻文詩(アンドロニクスやナエウィウスのような、部分的に文学的な韻文詩)の作者たちがどのようにしてそのようなパズルに打ち興じて時を過ごすことができたのか、まず何より問うてみたくなるのも無理からぬことです。というのは、韻律法に関わる一切を度外視してみても、サトゥルヌス詩はまさしく不可解なタングラムだからです。例を列挙するには長大な手紙が必要になってしまいますが、しかし法則を提示するにはたった二行で事足ります。