柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

冬のソナタの記憶

「やまと」という地名の文字として
中国の史書で使われている「倭」を用いていたが、
7世紀に「日本」という文字を使うようになり
後に「にっぽん」「にほん」と読むようになった。

「なにわ」→「難波」→「なんば」と同じだと思う。


ヘーゲル『精神哲学』(岩波書店

単なる直観の立場においては、われわれはわれわれの外部にいる。

それ故にまた、表象に止揚された直観が問題になる場合、言語は私はこのものを見た(habe gesehen)というのは全く正しい。

しかし、完了形の場合に用いられたhabenという言葉は本来全く現在性(現前性)の意味をもっている。私が見た(gesehen habe)ものは、私がただもっていたことがある(hatte)だけの或るものではなくて、なおもっている(habe)或るもの、こうして私のなかに現前している或るものである。われわれは「もつ」(haben)という言葉のこの用法のなかに、近代的な精神の内面性に関する一つの一般的な記号を見ることができる。


村上春樹 1Q84
BOOK1<4月-6月> BOOK2<7月-9月>
定価各1890円

私たちはこの物語から
かけがえのないものを
受けとり続けるだろう。

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