柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

セカイ史の構造

「ぼっち」は「坊ちゃん」「ぼんち」の別名かと思ったが
「一人ぼっち」の事らしい。

シュティルナーの単独者、唯一者ですね。


ぼっち本 江戸屋猫八百 八柾山崎

真剣!ぼっちしゃべり場

 江戸猫:宇野(常寛)は詳しくないんだけど、結局中間的な開かれた共同体を作れって話に落ち着くんじゃないの?
 愛甲:いやしかし中間集団にコミットできないのが我々なわけでw その共同体も誰が作るのかって問題もある。

 江戸猫:やや大きな話を見ると、規律訓練→環境管理型権力というのはフーコーをもとによく言われていることですが、どうじに中間的な集団のもとになる市民社会がなくなっているといわれています。ハートとかがね。だから、そういう中間団体みたいなのはないんじゃないかなと思ってしまう。
 愛甲:日本だとおせっかいな近所のおばちゃんとか?w>中間集団
 愛甲:それは中間集団というか地域社会かw
 峰尾:中間集団はヤクザでもおk

 江戸猫:柄谷行人さえもそういうふうに自己啓発本的に読んでしまう人たちがいるわけでね。

 八柾:世界同時ぼっち革命を待望しつつ寝ます。


少女は獣姦の夢を見る 峰尾俊彦

 そもそも柄谷は「剰余価値」の発生の条件として価値観を異にする「共同体」と「共同体」の間の交換を挙げていたが、このことは、「恋愛」というコミュニケーションに関していえば、「人間」と「動物」の間で妊娠すること、すなわち「獣姦」によって妊娠してはじめてコミュニケーションの成功を保証する「記録」たりえるのということを示しているのではないか。