柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

マルクス「ドイツ・イデオロギー」

マルクスドイツ・イデオロギー」『マルクスエンゲルス8巻選集 第1巻』
マルクスエンゲルス8巻選集翻訳委員会訳、大月書店)

 さらにはまた、ただ生産力のこの普遍的な交通が実現していて、このことからそれは一方において「文なし」大衆の現象をあらゆる民族のうちに生みだし(普遍的競争)、それら諸民族のそれぞれを璽余の民族の変革に依存させ、そしてとどのつまりは世界史的な諸個人、つまり普遍的な経験を有する諸個人を局所的な諸個人にとって代わらせているからである。このことなしには、(一)共産主義者はただある局地的なものとしてでしか存在しえないであろうし、(二)交通の諸力そのものは普遍的な、それゆえに堪えられぬ力として発展するということはありえなかったにちがいなく、それらの力はいつまでも土着の迷信的な「厄介物」であるにとどまったであろうし、そして、(三)交通がすこしでもひろがればそれによって局地的共産主義は廃止されることになるであろう。共産主義は経験的にはただ主だった諸民族の仕事として「一挙に」そして同時にのみ可能なのであり、そしてそのことは生産力の普遍的発展とそれにつながる世界的交通を前提とする。


永続革命=通時的、同時革命=共時的という事になる。


フォアレンダー『カントとマルクス 上』(井原糺訳、岩波文庫

 その究竟目標は、既に一七八四年の論文に述べられた国際聯盟である。『永遠の平和の為に』の第二の決定條項は国際法は自由なる国家の連盟に基礎を置かざるべからず、といふ事である。カントは考へる。若しも我々が野蛮人のその無法則の自由即ち不断の不條理なる闘争を棄てる事を欲せざるの情を、『粗野未開』にして『人性の動物的毀損』なりしとして侮蔑の念を以て見るならば、人は、文明国民はかゝる非難すべき状態から一刻も早く脱せんと努力するのが当然だと考へるべき筈である。所がそれどころか、各国家はその国家が、依然として戦争せんとする意志が全然何等の法的強制に従はしめられぬといふ点を名誉と做して居る、そして、『その主権者の光栄は、己れ自らは何等の危険を身を曝すことなくして、無数の人民を意の儘に動かし、彼等自身の利害に毫も関係なき事の為に、身命を擲たしむる所にありとなしてゐる』。併しながら、軍事的の勝利によつて正邪は決して決定せられ得るものではなく、法、理性、道徳は、『訴訟手続としての戦争を絶対的に非難する』ものであるからして、そこで凡ゆる戦争の永久の終焉を目指す所の平和聯盟が創設されねばならぬ。斯かる国際聯盟は何等の権力獲得を目的とはせずに、単に『自国自らが並に他の聯盟国家の自由の維持と保障』を志すものである。我哲学者は、之が遂行に当つて、自づと永遠の平和へと向ふ力強い文明的共和国を斯かる聯盟の中心にするけれども、それが決して世界共和国或は世界君主国とまではなる必要がない、といふやうに考へた。カントに従へば、若しも一般に『その場合尚何等かの意味ある内容の存せん為には』、理性が斯かる『市民的社会聯号』、即ち『自由聯盟』の思想に、国際公法なる概念を結び付けなければならないのである。ウィルソンは、彼の著書に於て、又一九一八―一九一九年の『十四箇條』に於て、カントと全く類似せる思想を展開してゐる。併し乍ら、次でそれを遂行する事は出来なかつた。今日に於て、遺憾乍ら我々はそれの実現から猶遼かに距つて居るのである。


stateはstandに通じるらしいが
国家としては倒れたり結合したり変異する可能性がある
状態を意味するかもしれない。

state[ラテン語status (stare立つ+-tus過去分詞語尾=立っている状態). △STATUS, STAND]


マルクスからルーゲへ クロイツナハ 一八四三年九月」
ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』(城塚登訳、岩波文庫

 それゆえ、われわれが何か教条的な旗印をかかげることに私は賛成できません。反対なのです。われわれは、教条主義者たちが彼らの命題をはっきり理解するように、彼らの手助けをしてやるよう努めなければなりません。この点からいえば、ことに共産主義というのは一つの教条的抽象物です。とはいってもここで私の念頭にあるのは、何らかの構想された可能な共産主義ではなく、現実に存在している共産主義、すなわちカベー、デザミ(40)、ヴァイトリング等々が説いている共産主義です。この共産主義はそれ自体、その対立物である私有制度の影響を受けた一現象、人道主義原理の特異な一現象にすぎません。それゆえ、私有制度の廃棄と共産主義とはけっして同一のものではなく、したがって、フーリエプルードン等の社会主義説のような他の社会主義的諸教説が共産主義に対立して発生しているのが見られるのは、偶然のことではなく、必然的なことなのです。なぜなら、共産主義それ自体が、社会主義的原理の一つの特殊な、一面的な実現にすぎないからです。

訳注

(40) Theodore Dezamy(一八〇三―一八五〇年)、フランスの政治評論家。ユートピア的な共産主義を説き、一時ブランキ主義の秘密結社に入ったりしたので、革命的実践を重んじる傾向をもっていた。


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