柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

マルクス/エンゲルス ドイツ・イデオロギー 廣松渉編訳 岩波文庫

マルクスエンゲルス
ドイツ・イデオロギー
フォイエルバッハ、B・バウアー、シュティルナー
代表者とする最近のドイツ哲学の、ならびに、さまざ
まな預言者におけるドイツ社会主義の、批判 
廣松渉編訳・小林昌人補訳 岩波文庫

[序文]
[序論の第一草案]
[序論の第二草案]
[序論の第三草案]
[本論 一]

一定の生産様式ないし産業段階は、常に一定の協働ないし社会の段階と結びついている、そしてこの協働の様式がそれ自身一つの「生産力」なのであるということ、そして人間たちが手にしうる生産諸力の〈状況〉大きさが社会的な状態を条件づけるのであり、それゆえ、「人類の歴史」は常に産業および交換の歴史との連関で、研究され論じられねばならないということである。

*2 この箇所の行間に、マルクスの追補を承けて記されたと思われるエンゲルスの書込。
そして同時に幻想的な共同性として
*3 この箇所の行間に、マルクスの追補を承けて記されたと思われるエンゲルスの書込。
そもそも、普遍的なものというのは共同的なものの幻想的形態なのだ

あるいはまた、さまざまな諸個人ないし国々の〈個々の〉生産物の交換にすぎないはずの商業が、需要と供給の関係を通して全世界を支配するというようなことが、どのようにして生じるのか?

それゆえ、他面では、共同的利害および幻想的な共同的利害に対立してたえず現実に立ち現われる、これら特殊利害の実践的闘争もまた、国家という幻想的な「普遍」利害による実践的な調停と制御を必要とすることになる。

つまり、生産諸力の発展なしには、欠乏、窮迫が普遍化されるにすぎず、それゆえ、窮迫に伴って必要物をめぐる抗争も再燃し、古い汚物がことごとく甦らざるをえないだろうからであり、さらに、生産諸力のこの全般的な発展に伴ってのみ人間たちの全般的な交通が据えられる――したがって、一方では「無所有」の大衆という現象〈が〉をあらゆる諸国家のうちに同時的に〈現われ〉創出し(普遍的競争)、どの国民もが他国民の変革に依存するようにさせ〈るからである。このことなしには〉、そしてついには世界史的な、経験的に全般的な諸個人を局地的な諸個人にとって代わらせることとなる――からである。このことなしには、(一)共産主義は局地的なものとしてしか実存しえず、(二)交通の〈疎遠な〉諸威力そのものが全般的な、それゆえに耐え難いほどの諸威力として発展してしまうこともありえず、土着的・迷信的な「厄介事」のままであり続けるであろう。しかし(三)交通のどのような拡大もが、局地的な共産主義(29)を廃止するであろう。共産主義は、経験的には、主要な諸国民の行為として「一挙的」かつ同時的にのみ可能なのであって、このことは、生産諸力の全般的な発展およびそれと連関する世界交通を前提としている。

〔一〕この抹消文は文法的に乱れているため、読み方は一義的でない。

プロレタリアートは〈それゆえ、実践的・経験的な実存としての世界史を前提とする〉それゆえ、世界史的にのみ実存しうるのであって、それは、彼らの営為たる共産主義がそもそも「世界史的な」実存としてしか現前しえないのと同様である。諸個人の世界史的な実存とは、すなわち諸個人が〈あらゆる……の歴史と物質的に〉世界史と直接的に結びつけられて実存しているということである。

 さて、この発展の過程で、相互に作用しあう個々の領域が拡大すればするほど、つまり個々の民族性の原初的な閉鎖性が――より成長した生産様式や交通〈形態〉によって、また〈大規模な〉これらによって自然発生的にもたらされる諸国民間の分業によって――〈止揚〉廃棄されればされるほど、それだけますます歴史は世界史になっていく。

あるいはまた、砂糖とコーヒーは、ナポレオンの大陸封鎖で生じたこれらの産品の欠乏がドイツ人たちを

ナポレオンに対して起ち上がらせ、そうして一八一三年の輝かしい解放戦争の実在的土台となったことによって、一九世紀におけるその世界史的な意義を証示した。歴史の世界史へのこの転換は、「自己意識」、世界精神、あるいはその他の形而上学的な幽霊のからきし抽象的な事績というようなものではなく、まったく物質的な、経験的に追認できる事績である。

 †聖人マックス・シュティルナー自身、世界史を担ぎ回り、昔われらの主イエス・キリストの肉と血をそうしたように、日々世界史を飲み食いしている。†そして、世界史の方でも彼を、つまり「彼固有の」産物である唯一者を、――彼も飲み食い着なければならないのだから――日々生産する。『唯一者[とその所有]』における引用文は、ヘスやその他遠方の人々に対する聖人マックスの論争(30)と同様、彼がいかに、精神的にまでも、世界史によって生産されたかを証明している。†したがって、「世界史」において諸個人は、シュティルナー流に言えば学生たちや自由な裁縫女工たちの「連合」の中でそうであるのとまったく同じ程度の、「所有者」だという結論になる。

すなわち、個々の個人は活動が世界史的な活動へと拡大するにつれて、ますます、彼らにとって疎遠なある威力――ますます大規模に〈なっていく威力〉なってきて、最終的には世界市場として本性を現わす一威力――の下に隷従させられてしまった(そこで彼らはこれの重圧をいわゆる世界精神の奸計、等々として表象した)ということである。

すなわち、共産主義的革命(これについては後述)による現存社会状態の転覆〈と解消〉によって*、そして、それと同じことである私的所有の廃止によって、ドイツの理論家たちにはかくも神秘的に見えるこの威力は解消されるということ、そしてその時、個々の個人それぞれの解放は、歴史が世界史へと完全に転化するのと同じ〈関係〉度合いで遂行されるということである。

全面的な依存性、諸個人の世界史的な協働のこの最初の自然発生的形態は、

この共産主義革命によって、これらの諸威力――人間たちの相互的な作用から生まれながら、従来はまったく疎遠な威力として彼らに畏怖の念を起こさせ、彼らを支配してきた諸威力――の統御と意識的支配へと変えられる。

[本論 二]

* このあたりから数行にかけての欄外にマルクスの書込。
(普遍性は次のものに照応する。(一)身分に対する階級。(二)競争、世界交通、等。(三)支配階級の成員が非常に多数であること。(四)共同的利害の幻想。当初はこの幻想は真実だった。(五)イデオローグたちの欺瞞、分業。)

[本論 三-1]
[本論 三-2]

第一の場合は、諸個人が、何らかの紐帯――家族〈として〉であれ部族〈として〉であれ大地そのものであれ、等々――によって共属していることを前提とし、第二の場合は、諸個人が互いに独立であること、そしてただ交換によってのみ〈共属している〉結び合わされるということを前提とする。第一の場合には、交換は主として人間と自然の間の交換、つまり人間の労働〈と交換して〉と引き替えに自然の産物を得る交換である。第二の場合には、人間相互間の交換が優勢となる。

* このあたりの欄外にマルクスの書込。

小市民
中間層
ブルジョアジー

大工業がいかなる文明国をも、またそこに住むいかなる個人をも、自らの欲求を充足する上で全世界に依存するようにさせ、個々の国民の旧来の自然発生的な排他性を根絶したこと、この点において、大工業は初めて世界史を産み出した。

同時にまたそれは〈……の表現[だったので]〉一階級が他階級に対抗して結合したものだったので、〈新たな……になった〉被支配階級にとってはまったく幻想的な共同社会〈でしかなかった〉であったばかりか、新たな桎梏でもあった。

自由民と奴隷の中間に位置する平民は、決してルンペンプロレタリアートの域を越えることはなかった。

近代の経済学者たち自身が、例えばシスモンディやシェルビュリエ(22)などは、諸個人の連合(アソシアシオン)を諸資本の連合に対置している。

これに対して今日では、そもそも物質的な生が目的として現われ、この物質的な生の創出、すなわち労働(これが今日では唯一可能な、だがわれわれが見たように否定的な、自己活動の形態なのである)が手段として現われているほどに、自己活動と物質的な生の創出とは離れ離れになっている。

 私法においては、現存する所有諸関係は一般的意志の結果であると述べられる。

 なぜイデオローグたちは一切を逆立ちさせるのか。

付録 I
付録 II
補録 フォイエルバッハに関するテーゼ

訳註

(29) 局所的な共産主義――イギリスのオーウェン(派)やフランスのカベ(派)などが実地に建設し、あるいはしようとしていた、共産主義コロニー。
(22) シモンド・ドゥ・シスモンディはスイス出身の歴史家・経済学者。フランス古典経済学の一人で、労働者に共感を寄せて資本家の横暴を批判した。著書に『経済学新原理(Nouveaux principes d'economie politique)』(一八一九年)、『経済学研究(Etudes sur l'economie politique)』(全二巻、一八三七、三八年)等がある。シェルビュリエはシスモンディの支持者。