柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

ソ連は「世界共和国」または「国際連合」だったか

レーニンは『国家と革命』(宇高基輔訳、岩波文庫)の中で
マルクスの「フランスの内乱」に言及している。

 「この最後の条件〔労働の経済的解放〕のもとになければ、コンミューン制度は一つの不可能事であり、一つの欺瞞であったであろう。」〔岩波文庫版『フランスの内乱』一〇一―一〇二ページ。大月書店版、マルクスエンゲルス選集、第十一巻、三三二ページ。〕

 (エンゲルス連邦国家は二つの点で統一国家と区別される。すなわち、連邦加盟の各国家、各州がそれ自身の民法および裁判制度とをもっていること、つぎに、国民議会とならんで連邦議会が存在し、この連邦議会では、各州はその大小いかんを問わずそれぞれ一州として投票するということである。
ドイツでは、連邦国家は完全な統一国家への過渡である。そして、一八六六年と一八七〇年の「上からの革命(20)」は、これをふたたび逆行させるのではなく、「下からの運動」によって補足しなければならない。〔大月書店版、マルクスエンゲルス選集、第十七巻、三八七―三八八ページ。〕

なぜなら、完全に徹底した民主主義は資本主義のもとでは不可能であり、社会主義のもとではどのような民主主義も死滅するであろうからである。

訳註

(20) 「上からの革命」 エンゲルスがここでいっているのは、プロシアの支配者によって「上から」軍事力によって遂行された、細分されていたドイツ諸国家の単一国家への統一のことである。一八六六年のプロシアオーストリア戦争は北ドイツ連邦の形成にみちびき、一八七〇年のプロシア=フランス戦争はプロシアを指導者とするドイツ帝国の創設にみちびいた。―102


宇都宮芳明『カントと神 理性信仰・道徳・宗教』(岩波書店

 確定条項にかんしていえば、『法論』では先に述べたように、永遠平和のために「一切の国家を残らず包括した共和組織」の設立が説かれていたが、『永遠平和のために』では、「一つの世界共和国(16)」という「積極的理念」の代わりに、独立した諸国家の「連合」という「消極的な代替物」が「法を嫌う好戦的な傾向の流れを阻止できるとされる(17)(VIII 357)。これもまた、法の理念を問題にする『法論』と、法の適用面を重視する『永遠平和のために』との相違点と言えるであろう。一切の国家を包括した「世界共和国」は、永遠平和に到る道を照らし出すアプリオリな理念であるが、しかし現状においては、ヨーロッパ諸国はまだ世界共和国へむけて自国の国家主権を制限するという考えに達していないし、ヨーロッパ以外の諸国においては、国内的な法的市民体制すら確立していない。そこでまず、国内的に共和制を実現した国家が扇の要となってヨーロッパ諸国の間に連合制度を確立し、他方非ヨーロッパ諸国やその諸国民との間には普遍的友好権を確立する。共和制国家が増えるに従って連合制度は次第に拡大し、ついには地上のすべての国家がこの連合制度に加盟することによって永遠平和の維持が可能になる。これがカントの示した具体的方策なのである(18)。

(16) カントがここで言う「世界共和国(Weltrepublik)」とは、それに先立つ叙述から明らかなように、諸国家が「その未開な(無法な)自由を捨てて公的な強制法に順応し、そうして一つの民族統合国家(Volerstaat, civitas gentium)を形成して、この国家が遂には地上のあらゆる民族を包括する」ことによって成立する体制である。カントによると、諸国家が「ただ戦争しかない無法な状態から脱出する」ためには、「理性による限り」この方策しかなく、この方策は「一般命題として(in thesi)正しい」。だが人々は「彼らが持っている国際法の考えに従って」国家の自由な主権がさらに高次の「公的な強制法」によって制限されることを欲しないから、この方策を「具体的な適用面では(in hypothesi)斥ける」。そこでこれに代わる「消極的な代替物」としての「国際連合(Bund, Volkerbund)」が実現可能な次善の策とされるのである(VIII 357)。『理論と実践』によると、「諸国家の困窮が諸国家を強要して、一主権者の下にある世界市民的な共同体ではないにしても、共同に取り極めた国際法に従う連合という法的状態に到らせる」が、しかしカントによると、「法の原理から出発する理論」は、たとえ人々が空論と非難するにしても、「一つの普遍的な諸民族統合国家」を設立し、「その権力に個々のすべての国家が自発的に服従すべきである」というサン・ピエールやルソーの提案を支持する。こうした国家は、「実践的に(in praxi)可能」であるし、「世界市民的見地から理論的に妥当することは実践的にも妥当する」からである(VIII 311ff.)。カントが「諸民族統合国家」としての「世界共和国」を空虚な理念としてではなく、実践的見地において客観的実在性を備えた理念として考えていることは、以上から明らかであろう。
 とは言え、カントはこの理念に不安定な要素があることも知っていた。『法論』によると、「真実の平和状態」は、「一つの普遍的な国家結合体(ein allgemeiner Staatenverein)」である「諸民族統合国家」の実現によってはじめて保障されるが、しかし「こうした諸民族統合国家が広大な地域へとあまりにも拡大されると、その統治や、したがってまた各成員の保護もついには不可能とならざるをえないし、こうした組織集団の一群はふたたび戦争状態を引き起こす」結果になる。したがってこの観点から見る限り、「永遠平和は実のところ実現不可能な理念」なのである(VI 350)。「世界共和国」は「積極的理念」であるにもかかわらず、内にこうした不安定な要素を含んでいる。またカントは、『永遠平和のために』のなかの他の箇所で、「多くの民族が一つの国家に吸収」され、「一つの国家に融合」する形での「諸民族統合国家」は、国際法が独立した諸民族国家間の法を扱う限りにおいて、矛盾を含んだ概念であるとする(VIII 354)。しかしこの場合の「諸民族統合国家」は、むしろ「世界王国」に近く、「世界共和国」としての「諸民族統合国家」とは異なるであろう。「世界共和国」の場合には、その成員である諸国家が「世界共和国」の定めた法に従わなければならないとしても、それぞれはなお独立した国家として主権を所有するからである。おそらくカントの考えでは、「世界共和国」は実現可能であるとしても、それはきわめて遠い将来においてであって、文明化の不完全な現段階においては、この理念が強力な一国家によって利用され、「世界共和国」ならぬ「世界王国」への道を開くことになる。カントが「世界共和国」の実現可能性を積極的に主張しなかったのも、こうした理由が重なってのことであろう。
(17) 『普遍史の理念』においては、『永遠平和のために』でなされている「世界共和国」と「国際連合」の区別は見られない。そこでの叙述によると、「国際連合」が成立すれば、その成員である諸国家の安全と権利は、国際連合の「合一した威力と、合一した意志の法による決定」によって保障される(VIII 24)。とすれば、この「国際連合」は諸国家のたんなる連合体ではなく、「合一した意志の法」を備えた世界共和国と見るべきであろう。この論文に出てくる「国家連合(Staatenverbindung)」(VIII 26)とか、「将来における一つの大規模な国家組織体(ein kunftiger groβer Staatskorper)」(VIII 28)についても同じことが言えよう。なお後の『宗教論』にも、「世界共和国としての国際連合に基づいた永遠平和の状態」(VI 34)という表現があり、世界共和国とか国際連合といったカントの用語が必ずしも一定していないことを指摘しておきたい。


エンゲルス共産主義の原理」『マルクスエンゲルス全集 第4巻』
(一八四七年一〇月下旬から一一月にかけて執筆、山辺健太郎訳、大月書店)

――そのために、これまでの中間層とくに小手工業の親方はますます破滅し、労働者の状態は以前とはまったくかわり、だんだんと他のものをのみこむ二つの新しい階級がつくりだされた。

 一九 問 この革命は、ただ一国だけに単独に起こりうるだろうか?
 答 いや、起こりえない。大工業は世界市場をつくりだして、すでに地球上のすべての人民、とりわけ文明国の人民をたがいに結びつけているので、どこの国の人民も、よその国に起こったことに依存している。さらに、大工業は、ブルジョアジープロレタリアートとを、すでに社会の二つの決定的な階級にし、またこの階級のあいだの闘争を、現在のおもな闘争にした。この点で大工業は、文明諸国における社会の発展を、すでに均衡にしてしまっている。だから、共産主義革命は、けっしてただ一国だけのものでなく、すべての文明国で、いいかえると、すくなくとも、イギリス、アメリカ、フランス、ドイツで、同時に起こる革命となるであろう。


レーニン「ヨーロッパ合衆国のスローガンについて」
『ソツィアル−デモクラート』第四四号、一九一五年八月二十三日
レーニン全集 第二十一巻』(マルクスレーニン主義研究所訳、大月書店)

 世界(ヨーロッパでなく)合衆国は、――共産主義の完全な勝利が、民主主義国家をもふくめて、あらゆる国家を最後的に消滅させるまでは――われわれが社会主義と結びつける、諸民族の連合と自由との国家形態である。だが、独立のスローガンとしては、世界合衆国というスローガンは、おそらく正しくあるまい。第一に、それは社会主義と合致するからであり、第二には、一国での社会主義が不可能であるというまちがった解釈と、そのような国と他の国々との関係についてのまちがった解釈を、生みだす恐れがあるからである。
 経済的および政治的発展の不均等性は、資本主義の無条件的な法則である。ここからして、社会主義の勝利は、はじめは少数の資本主義国で、あるいはただ一つの資本主義国ででも可能である、という結論が出てくる。