柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

僕は1991年、ロンドンに

廣松渉が『社会主義の根本理念』(情況出版)で
引用している協約は以下のようだ。


マルクスエンゲルス全集 第7巻』(大月書店)

 革命的共産主義者万国協会(二七六)(村田陽一訳)

 第一条 本協会の目的は、人類家族の最後の組織形態たるべき共産主義が実現されるまで革命を永続的につづけながら、すべての特権階級をプロレタリアの独裁に従属させることである。
 第二条 この目的の実現を促すため、本協会は、共和主義的友愛の原則に従って民族の分裂をなくすことによって、革命的共産党のすべての分派のあいだに連帯のきずなをつくりだそうとする。
 第三条 本協会の発起委員会はみずから中央委員会となる。中央委員会は、事業を達成するために必要なところにはどこでも、中央委員会と通信する委員会を設立するものとする。
 第四条 本協会の会員数には制限はないが、なんびとも、全員一致の投票で承認されないかぎり、会員に採用することはできない。選挙はどんな場合にも無記名としてはならない。
 第五条 協会員はすべて、本規約の第一条を絶対的に守ることを誓約する。第一条に表明された意図をよわめるおそれがあるような修正がくわえられた場合には、協会員はその誓約をとかれる。
 第六条 すべて協会の決定は、投票者の三分の二の多数によって採択される。
                 アダン
                 J・ヴィディル
                 K・マルクス
                 アウグスト・ヴィリヒ
                 F・エンゲルス
                 G・ジュリアン・ハーニー

 一八五〇年四月半ばに執筆
 手稿による
 原文はフランス語


マルクスがカントに言及している。


カール・マルクス フランスにおける階級闘争 一八四八年から一八五〇年まで(六)(中原稔生訳)

 革命の進行によって、プロレタリアートブルジョアジーの中間にいる国民大衆、つまり農民と小ブルジョアが、ブルジョア秩序に反対し、資本の支配に反対して立ち上がり、彼らが、その前衛闘士であるプロレタリアに味方せざるをえなくなるまでは、フランスの労働者は一歩も前進することはできず、ブルジョア秩序を髪の毛一本ほどもそこなうことはできなかったのである。

 こうして眼前に迫ったブルジョアジープロレタリアートの接戦において、すべての利点、すべての決定的部署、すべての中間社会層は、ブルジョアジーの手中ににぎられていた。

 すなわち、それは、階級闘争を束縛からときはなち、ブルジョア社会のさまざまな中間層に彼らの幻想と幻滅を迅速に体験させ、搾取階級の全分派を一挙に国政の高みに押しあげ、そうして彼らそのまやかしの仮面をはぎとったのである。

 ところで累進税は大なり小なりの程度で、現存の生産諸関係の内部で実行できる、一つのブルジョア的措置であるばかりではない、それは、ブルジョア社会の中間層を「律儀な」共和制にむすびつけ、国債を減らし、ブルジョアジーの反共和主義的多数派を抑制する唯一の手段であった。

 秩序党の各分派は、革命的プロレタリアートと、およびいよいよこれを中心にして集まりつつある過渡的〔中間的]諸階級との対立にしいられて、その連合した力をふるいおこし、この連合した力の組織を保持せざるをえなくなったので、それぞれ他派の復古欲と制覇欲に対抗して、共同の支配、すなわちブルジョア支配の共和制的形態を主張せざるをえなかった。

 これに反して山岳党は、ブルジョアジープロレタリアートとの中間を動揺し、その物質的利害が民主主義的諸制度を要求する大衆を代表していた。

 だから社会の中間層全体が、彼らが革命運動に追いこまれたかぎりは、ルドリュ‐ロランを彼らの英雄と認めざるをえなかった。

 ――こういうことは、反動派が勝利した場合、つねにくりかえす不可避的常套事であったが、六月の虐殺と流刑のあとで、とりたててこれをいう価値があるというのは、こんどは、これがパリにたいしてだけでなく、地方の諸県にたいしてもおこなわれ、またプロレタリアートにたいしてだけではなく、とりわけ中間階級にたいしてもおこなわれたからである。

 そこでフランス社会の不満をもった中間階級は、実際の絶望をともなう赤色君主制の恐怖よりも、むしろ疑問の余地のある恐怖をともなう赤色共和制の約束を選びはじめた。

 カントは、共和制を唯一の合理的な国家形態として、けっして実現はされないけれども、その実現をつねに目標として努力し、また主義において固守しなければならないような、実践理性の一要請であるとしたが、これと同じように、これらの王党派は、王政をそのような要請だ、と考えたのだ。

 既述においてわれわれは、しだいに農民や小ブルジョア、一般に中間階層がプロレタリアートとならんで立ち、公けの共和制との公然たる対立にかりたてられ、この共和制から敵として扱われるにいたったことを、見た。

 かくも迅速に革命の進行が情勢を熟させていたので、あらゆる色合いの改良派も、つまり中間階級のごく控え目な要求も、極端な転覆党の旗のもとに、赤旗のもとに結集せざるをえなくなった。

 (前三章のつづきは、『新ライン新聞』の最終号である第五・六合併号の『評論』中に見いだされる*。ここでは、まずはじめに、一八四七年イギリスに勃発した大商業恐慌を叙述し、この恐慌のヨーロッパ大陸に及ぼした反作用によって、大陸の政治的紛糾が一八四八年二月、三月の革命に先鋭化した理由を解明したのちに、一八四八年のうちにふたたび始まり、一八四九年にはさらに上昇した商工業の好況が、革命的高揚を麻痺させ、同時に反動の勝利を可能にしたのだという事情を述べている。次に、とくにフランスについて以下のごとくに述べている**。)
 * 本書、四三八―四四〇ページ、および四四六―四五六ページを参照。
 ** 一八九五年版にエンゲルスの記した注。


エンゲルスカール・マルクス『フランスにおける階級闘争、一八四八年から一八五〇年まで』(一八九五年版)への〕
序文(三三二)(中原稔生訳)

 すなわち、一八四七年の世界的商業恐慌が、二月と三月の革命のほんとうの生みの親であったこと、そして一八四八年の半ばからだんだんに回復し、一八四九年と一八五〇年に全盛に達した産業の好況が、あらたに強化したヨーロッパの反動を活気づけた力であったということである。

 「新しい革命は新しい恐慌につづいてのみ起こりうる。しかし革命はまた、恐慌が確実であるように確実である**」と。

 ** 本書、四四〇ページを参照。

 ロンドン、一八九五年三月六日
                  F・エンゲルス

注解

(二七六) 一八五〇年四月なかごろ、マルクスエンゲルスは、共産主義者同盟を代表して、革命的共産主義者万国協会の創立について、ロンドンに在住するフランスのブランキ派の亡命者や、チャーティストの革命的翼の代表者と連絡をとった。原則協定が調印された(アウグスト・ヴィリヒの執筆したもの)(本書、五五三―五五四ページを参照)。共産主義者同盟中央委員会が分裂したあとで、フランスのブランキ派は、ヴィリヒとシャッパーの指導する冒険的=セクト的少数派に味方し、彼らといっしょになって小ブルジョア民主主義的亡命者と密接な同盟を結ぶにいたった。こういう条件のもとで、マルクスエンゲルスは、一八五〇年一〇月はじめ、ブランキ派との協定を解消することが適当と考えた。このことは、ここに発表する文書にも指摘されている。四一五、五五三


老いたるいたち 日本文藝家協会/編 光村図書出版

天皇の世紀』から日本史へ、世界史へ / 柳家小三治
野球の「グローバリゼーション」 / 柄谷行人



チンギス・ハーンの父はイェスゲイ・バアトル。
ウランバートルは「赤い英雄」という意味らしい(1924年からの名称)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%AE%E3%83%B3%E6%B0%8F