柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

コメと天皇のDNA

昨日、旭川近郊・東川の農家で稲作作業を見て。
消費者に美味しいコメを届けようという気持ちはあると思うが
苗を田に植える作業は機械的だ。
昔、レンタルビデオ屋で店員がビデオを
カゴに無造作に投げるのを見てショックだったのを思い出した
(自分は作り手側という妄想があるからだと思うが)。

日本文化を象徴する食物などという事も考えていられない。
自衛隊の実態も同じなのではないか。
神楽(神楽岡、西神楽、東神楽)という
弥生的な地名の地区も変わらないのだろう。

いつから現在のような形態で稲作が行なわれているかは
よく知らない。
常時、水をたたえ、水位を水路で調整する東アジアの水田は
現在の世界でもその技術を持てる国は少ないだろう。

苗から田植えという事で
日本で軟式野球軟式テニスが発明された事も考えた。

日本でDNA、ヒトゲノムの話題が
一般に盛り上がらないのは
天皇家の存在意義に関わるからではないかとも。


ハンス=ゲオルグ・ガダマー『詩と対話』(巻田悦郎訳、法政大学出版局

それゆえに、(際限ない讃美歌の通奏低音によって朗唱されているように)このもう一つの詩節を満たしているのは、遠方までどよめき渡る響きと音の形象である。

マクベスハムレットも呼び出されないが、しかし、シェイクスピアの詩句の幻に高められることを願っている空中のとどろきのようである。


中沢新一東浩紀白井聡「日本的想像力と成熟」思想地図vol.4

東 中沢さんが『対称性人類学』で呈示されているような資本主義の外部への視線は、じつは柄谷行人さんの仕事ととても近いと思います。ただそのときに、印象論になってしまいますが、柄谷さんが、「超越性」「普遍性」をキーワードとして近代ヨーロッパを近代ヨーロッパの原理で内在的に乗り越えるというようなアクロバットを展開し、とても肩に力が入っているのに対して、中沢さんの議論はやわらかく横滑りしていくような力を持っている。


ハンス=ゲオルグ・ガダマー『詩と対話』(巻田悦郎訳、法政大学出版局

われわれの社会は匿名の道具的システムにますます支配され、言葉によって直接的なコミュニケーションが生み出されることはもはやない。

詩では言語が言葉と物との完全な近接を実現するのである。


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