柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

AKB48「ポニーテールとシュシュ」

アレンジ、曲全体がサザンオールスターズ的なのだ。
秋葉原ドンキホーテの内装が
AKB48の女性ファンが行きやすそうに
コギレイになっていた。
南柏ドンキホーテ
西武のようなポスター。


スラヴォイ・ジジェク『パララックス・ヴュー』(作品社)

最初の手だてとして重要なのは、対立するものの両極性というこの主題を転換して、〈一〉自体に内在する「緊張」、ギャップ、不一致という概念にすることである。この本が依拠している戦略的な政治的−哲学的決定は、〈一〉をそれ自体からへだてるこのギャップをあらわすのに、パララックスということばを使用することである9。

こうしてみれば、コギトの非実体的性格を強調していることでは、柄谷は正しい。「コギトについて、ポジティヴに語ることはできない。そうした途端に、コギトの機能は失われてしまう13。」

 哲学の本質的な「故郷喪失」というこの方向性にそって、柄谷は――ヘーゲルに反対して――世界市民主義的な「世界−市民−社会/Weltburgergesellschaft」というカントの着想を擁護する。これは、国民国家の市民権を、単純にグローバルな国境を越えた〈国家〉の市民権に拡大するというようなものではない。それは、移行をともなっている。特殊な伝統に具現された自分の「有機的な」民族的実体との一体化という原理から、根本的に異なった一体化の原理への移行である――柄谷がここで引きあいにだすのは、普遍的な単独性というドゥルーズの見解である。

原注
9 ここでの議論は、次のものに負うところがあるのを認めたい。Kojin Karatani, Transcritique: Kant and Marx (Cambridge, MA: MIT Press, 2003). 柄谷行人トランスクリティーク――カントとマルクス』(定本柄谷行人集3、岩波書店、二〇〇四年)。
13 Karatani, Transcritique, p. 134. 柄谷『トランスクリティーク』、二〇五ページ。


ヤコヴ・M.ラブキン『トーラーの名において』(平凡社

第一章 いくつかの指標
第二章 新しいアイデンティティ
第三章 〈イスラエルの地〉、流謫と帰還のはざまで
第四章 武力行使