柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

新ゴに埋めつくされた名古屋

20日、東京からこだまで名古屋に着き
地下鉄に乗ろうとしたが
表示が全て最近良く使われるゴシック体の
新ゴで驚いた。

モリサワ http://www.morisawa.co.jp/font/fontlist/details/fontfamily007.html
東京でも大江戸線りんかい線
副都心線ほか東京メトロとJRは順次
新ゴになっていると思うが。

三英傑(信長・秀吉・家康)のフェアをやっているらしい。
21日、相模原・淵野辺のきてやで浜崎りおと飲み会。
http://iibenntou.blog62.fc2.com/blog-entry-10.html
昨日、茂原に帰ってきたら
テレビで「戦国BASARA」というアニメを
放送していた。


スラヴォイ・ジジェクポストモダン共産主義』(栗原百代訳、ちくま新書

 つまりコミュニズムを「統制的理念」として、したがって「倫理的社会主義」の亡霊をよみがえらせるものと見なし、「平等」をアプリオリな規範または公理であると考えてはならない。

 フロイトラカンは、抑圧されたものの回帰が起こらないような抑圧はないこと、抑圧的な言説が抑圧の対象を生むことをよく承知していた。

 フロイト用語でいえば、近年の抗議運動はホメイニ革命の「抑圧されたものの回帰」だ。


ジジェク『身体なき器官』を読み始めて
ドゥルーズの「器官なき身体」は
ディスカバリー号、というよりHALの事か思った。


スラヴォイ・ジジェク『身体なき器官』(長原豊訳、河出書房新社

 ドゥルーズ的な表現で言えば、「人格」は現勢化された現実の秩序に属し、そうするなかで或る個人に特徴や特性の富を指示するが、主体は個人に対置される厳密な意味でドゥルーズ的な「分割−分配されたもの dividual」へ分化されるのである。