静的なものと動的なもの
蘭は雀蜂のイメージやコピーを形づくりながら、脱領土化する。しかし、雀蜂はこのイメージにならって自らを再領土化する。けれども、雀蜂は、それ自身が蘭の再生産(生殖)装置の一部になっているのだから、脱領土化してもいる。しかしまた、雀蜂は、蘭の花粉を運ぶことによって蘭を再領土化する……コードの捕獲、コードの剰余価値、原子価の増大、正真正銘の生成変化、蘭の雀蜂への生成変化、雀蜂の蘭への生成変化。
蘭の根がリゾーム、
領土はテリトリー、蘭は定住民、スズメバチは遊牧民
ということだろうか。
フランソワ・ドス『ドゥルーズとガタリ 交差的評伝』
(河出書房新社)を読みながら。
浅田彰が、ヒトラーがベルリン・オリンピックの記録映画を製作させた事と
満州で甘粕正彦(『ラスト・エンペラー』の坂本龍一)が映画を製作した事で
映画とは政治的なものであると言っていた
(写真ではなく活動写真という事か)。
現在でも音楽ビデオはプロモーション・ビデオと言い、
小説やマンガが映像化される場合、
出版物と番組の宣伝の相乗効果となる。
28日、相模湖で竹内あいとカレーを作った。
竹内あい http://blog.livedoor.jp/takeuti_ai/
高橋千晶 http://ameblo.jp/chiak0315/entry-10632627424.html#main
池上彰を読むのか。
郵政改革、政権交代、小沢一郎の報道を見ていると
分かりやすい事が良いとは思えない。
ドゥルーズ=ガタリの英語圏での受容は
ハリウッドでの日本のホラー、アニメの受容のようだ。
ネグリのイタリアからの脱出は
7世紀に白村江の戦から日本に逃れた百済王族のよう。
浅田彰はドゥルーズなどの邦訳に興味を持っていないだろう。
『アンチ・オイディプス』が「冬のソナタ」で
ドゥルーズ=ガタリの著作が韓国ドラマなのだ。