柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

船の構造

池橋宏『稲作渡来民』(講談社選書メチエ

0−2図 河姆渡(かぼと)遺跡の住居跡
古代の越の都「会稽」の近くで発掘された、紀元前5000〜前4000年の稲作集落。高床式の住居は今ではタイ系の人々の間で見られる

越人の後、『史記』の「始皇本紀」によると、紀元前二一九年に秦の始皇帝もここ(山東半島・瑯琊山)に足を運び、初回は三ヵ月滞在し三万戸を移して拠点とした。ここで、道教の方士である徐福に会って、彼に童女数千人をともなって蓬萊の国に行って不老不死の薬をもとめることを命じた。


正倉院
建立時期は不明だが、光明皇后が夫聖武天皇の遺愛の品を大仏に奉献した756年(天平勝宝8)前後とみるのが通説である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%80%89%E9%99%A2