柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

否定的なるもの(通俗的にいえば悪)

ヘーゲル

理性の狡知がどういう点にあるかといえば自分自身は過程に入り込まないで、諸々の客体〔人間〕をそれらの本性に従って作動させ、働きつかれさせて、しかもただ自分の目的のみを実現するという媒介的活動にある。この意味で、神の摂理は世界とその過程に対して絶対的な狡知として振舞っているということができる。神はさまざまの特殊な激情や関心をもっている人びとを好き勝手にさせておく。しかし、その結果として生じてくるものは神の意図の実現であって、それは神が手段として用いている人びとが追求していたものとは全く別のものである。


ヤーコプ・ブルクハルト "Weltgeschichtliche Betrachtungen" 『世界史的考察』

ヘーゲルは〈永遠の叡知によって目的とされたもの〉について語り、自分の考察は、否定的なるもの(通俗的にいえば悪)が従属せられ克服されたものとなってそのなかで消滅するところの、肯定的なるものの認識による一つの弁神論だと主張する。