柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

千島

千島列島 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%B3%B6%E5%88%97%E5%B3%B6


網野義彦『東と西の語る日本の歴史』(講談社学術文庫

 ここ(陸奥の十三湊)は、鎌倉幕府蝦夷管領となる一方、擦文文化といわれる津軽下北半島から北海道全体に及ぶ独特な文化圏を勢力範囲とし、のちに「夷千島王」といわれたと推測される安藤氏(安東氏とも書く。海保嶺夫「擦文文化の文献史的解釈」『物質文化』三八号、一九八二)の本拠であり、日本海海上交通の重要拠点であった。

 日光山は東国の聖地として、アジールであったのであろうが、それ以上にこの事実は、鎌倉公方―東国国家と日光との切り離しがたい関係をよく物語っている。


網野義彦・森浩一『馬・船・常民 東西交流の日本列島史』(講談社学術文庫

網野 泰衡が逃げて行く時に、渡島に渡ろうとするんです。だから、渡島、つまり北海道の南部は、確実に彼の意識のなかに入っていたんでしょう。

網野 一般的に言えば、吉野は古くからの聖地で、たしかにアジール(聖地)的な性格をもったところです。

網野 しかし、後醍醐がすぐに吉野と発想する根底には明らかに、かつての聖地吉野、アジール吉野の意識があったと思います。

網野 ただ、吉野のアジール性をうち破った男が、高師直なんです。

吉野のアジール性もこの時期には、絶対ではなくなってます。


渡島国 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E5%B3%B6%E5%9B%BD


阿倍比羅夫が行った渡島(わたりしま)は北海道南部で良いような気がしてきた。


佐々木高明『照葉樹林文化とは何か 東アジアの森が生み出した文明』(中公新書

 しかし、国立民族学博物館名誉教授の周達生氏によると、かつては長江をはさんで北側の地床式住居に対し、その南側には高床式の住居が広く分布していたことが明らかになっている。