柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

崖の上の宗助

小島信夫批評集成8 漱石を読む』(水声社

『それから』の二人が、宗助とお米と名前を変えて現われたといってもよい『門』では、そ知らぬ顔をしているがかつての事件はまだ夫婦の中では忘れられていなくて呼びよせられるように、お米の夫だった男が、彼らの住んでいる家のすぐ崖上の大家のところに現われる。

この場面は誰でも気づくところで、戦後間もない頃、私が友人のO・Kから『カラマーゾフの兄弟』を借りて読んでいると、この場面のところに線が引いてあって、バフチンと同じようなことをいっていた(柄谷行人は『探究I』の終りの方でこの場面を引用し、神がなければ成立たない、といっている。イワンのいいそうなことであるが)。


小島信夫 略年譜 二〇一〇年九月現在
1973年(昭和四八年) 五八歳
三月、山崎正和柄谷行人との鼎談「漱石と鷗外の志と現代」を『潮』に。
1979年(昭和五四年) 六四歳
(六月)三木卓柄谷行人との鼎談「読書鼎談」を『文芸』に。


柄谷行人 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%84%E8%B0%B7%E8%A1%8C%E4%BA%BA

1980年の『日本近代文学の起源』における「『文学』という概念は歴史的にもともとあったものではなく、近代になって『源氏物語』や井原西鶴などが、『文学史』として再発見され、作りだされた」といった議論は、大きな影響力をもった。その後、「○○は近代になって、人工的に産み出された概念である」というように、様々な論者によって流用されてきた[要出典]。しかし1978年に『日本近代文学の起源』が『季刊藝術』に連載されていた時点で、亀井秀雄が『群像』での連載「感性の変革」において、「起源」の同定作業が不徹底であるなど厳しく批判した。が、柄谷は応答しなかった。さらにアリエス『こどもの誕生』の剽窃だとする批判もあるが、本人は読んだことがない、と否定している[40]。

また柄谷は『新潮』1993年11月号掲載の「柄谷行人氏と日本の批評」と題された文章で、文芸評論家の福田和也から批判を浴びた。福田は(柄谷の)「文意に異議と反発を覚えながらも、私は、文の力に圧倒されてしまう事を認めざるを得ない」という言葉ではじめ、「にもかかわらず、最終的に柄谷氏の仕事は批評とはいえない」で終える。福田は徹底的に抽象化されつつもそこに柄谷の主張が刷り込まれたタームを「柄谷語」と表現する[41]。またたとえば「外部」「交通」という柄谷が重視する「柄谷語」についても、柄谷はまったく「外部」にも「交通」の場にも身をおいていないと批判する。それは柄谷がしばしば援用する小林秀雄の態度とはまったく違うものだという[42]。福田によればそれは、柄谷が過激さを装いつつ、中上健次も読者も批判したことがないことに端的に現れている[43]。さらには「論理の展開はアクロバティックであるのに」、そこから導き出されているのは「月並な守旧的主張にすぎない」とする[44]。福田和也による批判は次の言葉で締めくくられている。

“ これまでと同様に柄谷氏は、文芸批評者の大勢を追って右にも左にも大胆に立場を変えるだろう。その時々の読者の前で、華麗な思考を上演して見せ、常に文芸の正しい水先案内人であり続けるだろう。だが肝心の読者たちは、いつまでも氏の子守歌を求め、耳を傾けるのだろうか。”

40. 『ダイアローグ』参照
41. (福田 1993) pp.201-202
42. (福田 1993) pp.217-218
43. (福田 1993) p.219
44. (福田 1993) p.218