柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

アンダーグラウンド

1755年11月1日 リスボン地震
1766年 カント『形而上学の夢によって解明された視霊者の夢』
 スヴェーデンボリは聖書中に予言された「最後の審判」を1757年に目撃した、と主張した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%AA

スウェーデンボルグが予言したのは
リスボン地震の後なのか。


1974年の『宇宙戦艦ヤマト』で
地上が放射能で汚染され
地下都市に住む人類が描かれた。


宮崎駿の『風の谷のナウシカ
(1982〜94年マンガ、1984年映画)で
瘴気が充満した腐海では
人間は生きる事が出来ないが王蟲が住んでいる。


1995年1月17日 阪神・淡路大震災
1995年3月20日 地下鉄サリン事件

 4月15日予言は、オウム真理教麻原彰晃が1995年4月15日に地震が起きるとした予言。
 オウム真理教の出版物である『日出づる国、災い近し』(1995年2月)に、地震が起きる日として麻原が「4月15日にも起きるんだよね」と発言したことが発端である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/4%E6%9C%8815%E6%97%A5%E4%BA%88%E8%A8%80


柄谷行人「探究III」第十八回(「群像」1996年3月号)

 この「亀裂」を具体的に象徴したのは、一七五五年十一月十一日のリスボン地震である。ヨーロッパですべての聖人たちを祭るこの日、まさに信者が教会で礼拝していたときに起こったため、この地震は神の恩寵に対する疑いを巻き起こした。それは大衆的なレベルにとどまらず、文字どおり、全ヨーロッパの知的世界を震撼させた。たとえば、ヴォルテールは数年後に『カンディード』を書き、ライプニッツ的予定調和の観念を嘲笑し、ルソーも、地震は人間が自然を忘れたことへの裁きであると書いている。そのなかで、カントは地震に対して一切の宗教的な意味を与えることを拒絶し、その自然科学的原因と耐震対策を説いた。にもかかわらず、別の意味で彼がそれに揺すぶられたことは疑いがない。それは二つの面から言える。第一に、哲学を二度と瓦解しないような建築にしようとするカントのメタファー(建築術)はそこから来ているといってもよい。第二に、先に述べたように、この地震を予言した視霊者スウェーデンボルグの「知」に惹きつけられたことである。


2011年3月11日 東北・関東大震災福島第一原発事故


今回の放射線の問題について考えているが
24日に札幌の大通から札幌駅まで
完成した地下道を歩きながら
宇宙戦艦ヤマト』の地下都市を思い出した。


ジュリア・アデニー・トーマス『近代の再構築 日本政治イデオロギーにおける自然の概念』
(杉田米行訳、法政大学出版局

  現代の文芸評論家柄谷行人も同様の評価を下しており、(伝統的な「名所」ではなく)日本の「風景の発見」を推し進めた原動力は、欧米の風景画の輸入だったという。風景の発見は、内面の発見をともなった。柄谷によれば、外界の風景は、客体だけではなく自己の意識をも生む哲学的な視点を創りだすからである。この「風景」もしくは「認識的な布置」こそが、文化の「外側」としての機能を果たすと思われるかもしれない。しかし、風景は即座に文化に吸収され、「いったんそれができあがるやいなや」その起源も「隠蔽されてしまう」ので、その可能性はすぐに否定される(51)。たしかに、風景は決して文化の外側にあったり、独立していたり、文化の登場前に存在するのではなく、日本近代文化の血となり肉となっているのである。「明治二十年代において重要なのは、近代的な制度が確立したこと、そして『風景』がたんに反制度的なものとしてでなく、まさにそれ自体制度として出現したということである」と柄谷は論じている(52)。一八八〇年代後半と一八九〇年代に日本は風景を発見したが、それは同時に近代化した自己の発見でもあった。
  「言葉と悲劇」という別のエッセイで、柄谷は再度、特定の形をした自然と文化の弁証法を展開している。ここで、柄谷は丸山眞男と同じように自然と作為という二つの概念を使い、その完全な融和を主張する。「風景の発見」と「内面の発見」が絡み合うことで、外面性と内面性の相互作用を意識しない近代システムが確立したように、自然と作為は最終的に自然(じねん)という概念で統一される。この自然(じねん)という語は、「自発的な実践」と定義づけられ、文化の全体性を示している。「じねん」は「しぜん」と同じ漢字を使うが読み方が異なる。この「じねん」を選ぶ際、柄谷は、弁証法によってわれわれはつねに主体的な自然に戻り、その過程で創造性を見出しているに過ぎないと主張しているとも言える。
  柄谷が一八八〇年代後半から一八九〇年代の日本に特に位置づける風景の発見とは異なり、自然(じねん)に見出した自然と作為の統合は、あらゆる場所の近代文化を合わせてみる役割を果たした。柄谷は、日本文化が自然を従属させたのは珍しいことではなく「すべての共同体は……自然(じねん)の原理を持っている(53)」という。自然を否定するものとして近代を定義した丸山とは異なり、柄谷は近代を自然(じねん)と定義し、しぜんと同じ漢字だが異なる読み方を用いた。丸山が絶対的主体性という見地から近代を定義する一方で、柄谷は、主体と客体、内面性と外面性、自然と文化という差異をそっくり吸収する力があるものとして近代を定義した。私は丸山の見解には反対だし、柄谷の分析手法、つまり削除というやり方にも同意できない(54)。柄谷は主に近代を全体を合わせる役割で理解しようとしたが、そのせいで世紀転換期に、自然を文化として特定の形式にあてはめることが、イデオロギー的にどれほど効果があったか正確にとらえられなくなっている。さらに、近代化するとどこでも自動的に同じ結果になると示唆し、文化と自然を統合するには多大な努力が必要だとして、いわば自然の法則に基づいて説明している。丸山同様に柄谷は、自然の観念の相違を調査していない。

(51) 柄谷行人「風景の発見」『日本近代文学の起源』(講談社、一九八〇年)二一頁。英訳版trans., Brett de Bary, Origins of Modern Japanese Literature (Releigh, N.C.: Duke University Press, 1993), p.22.
(52) Ibid., p. 38〔同前、四一頁〕
(53) 柄谷行人『言葉と悲劇』(第三文明社、一九八九年)一七一頁。
(54) ブレッド・ド・バリーは「柄谷の風景は『自然』の客体と表象を混同している。当時の読者が『外の』風景と考えていたものが表象だった」。Brett de Bary, "Origins of Modern Japanese Literature," South Atlantic Quartery 87 (Postmodernism and Japan) (Summer 1988), p.599.