不気味なもの
ルソー「社会契約論」『ルソー全集 第五巻』(作田啓一訳、白水社)
この語によって、私は一般意志――つまり法律――によってみちびかれるすべての政府を意味している。
フロイト『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』(中山元訳、光文社古典新訳文庫)
この〈不安なもの〉のうちには、抑圧されたものが回帰して現れるような一群の不安が含まれているに違いない。
不気味なものとは、慣れ親しんだもの、馴染みのものであり、それが抑圧された後に回帰してきたもののことである。
ある[心的な幻想の]内容が現実に抑圧され、その抑圧されたものが回帰することが問題なのであって、その内容が現実のものであるという信念を放棄することは問われていないのである。
キース・ヴィンセント「「日本的未成熟」の系譜」(武藤芳治訳)
柄谷行人は、明治期について次のように書いています。
われわれ日本人には、西洋においては何世紀にも及ぶために記憶から抑圧されてしまった出来事が、その発生過程を凝縮させた形で、ある一定の期間内でその目で目撃されたのである*2。
柄谷にとっては、この経験を批評的あるいは理論的な覚醒の形に真に転化しえたのは夏目漱石ただ一人だったということになるのかもしれません。
*2 Kojin Karatani, Origins of Modern Japanese Literature (Durham, NC: Duke Unversity Press, 1993). p. 36.
ジョナサン・エイブル「クール・ジャパノロジーの不可能性と可能性」
このような論点は、柄谷行人の「よしもとばなな論」について大塚英志が指摘したことと似ています。
柄谷行人も述べたように、日本が面白いと感じられるのは、それが面白くないからなのです。
宮台真司「一九九二年以降の日本のサブカルチャー史における意味論の変遷」
典型が、柄谷行人や浅田彰がやっていた『批評空間』における「ポストモダン批判」で、日本はモダニティ(たとえば主体性や脱共同体性)を確立するのが先決だ、といった議論がなされていました。
毛利嘉孝「トランスナショナルな「理論」の構築に向けて 日本研究と文化研究」
マサオ・ミヨシさんとH・D・ハルトゥーニアンさんが編集した本(Postmodernism and Japan)で、浅田彰さんや柄谷行人さんとか一九八〇年代に日本でポストモダン理論をつくっていた人たちが、一九八七年にアメリカで行ったワークショップで発表された原稿をもとにしたものです。
河野至恩「ポップカルチャー言説の「視差」から考える」
一方、一九九〇年代以降、とくに『批評空間*3』後の日本の批評言説・批評環境の変化に中心的な役割を果たしてきた宮台氏や東氏の言説は、援交少女・ネット文化・アニメなど、日本の「サブカル」シーンに近い場所から生まれ、新しい批評の地平を切り開きつつある。
*3 柄谷行人と浅田彰の編集により、一九九〇年代日本の批評理論に大きな影響力を与えた思想誌。第一期は一九九一〜一九九四年に福武書店から、第二期は一九九四〜二〇〇〇年に太田出版から、第三期は二〇〇一〜二〇〇二年に批評空間社から刊行。そのアドバイザリー・ボードには酒井直樹やマサオ・ミヨシなども名をつらね、北米の日本学にも影響を与えた。
同時期(八〇年代末から九〇年代初頭)、柄谷行人を中心としたニュー・アカデミズム系の批評家・作家たちが「文学者による反戦アピール運動」を展開した。