サルトル、外、脱走
意識には内部(le dedans)なるものはない。意識は己れ自身の外(le dehors)以外の何ものでもない。意識を意識として成り立たせるものは、この絶対的な脱走(cette fuite absolue)であり、固定した物であることのこの拒絶(ce refus d'etre substance)だ。
花の色はうつりにけりないたづらに我身よにふるながめせしまに
ながむれば我が心さへはてもなく、行へも知らぬ月の影かな
危急存亡の状態にある一国の政治を委されたら、先ず何を第一になさいますか、と弟子に問われて、「必ずや名を正さんか」と孔子は答えた。「心也正名乎」(先ず何を措いても名を正すことだな)、と(『論語』「子路」十三)。孔子の考えていることが理解できない子路に、「これだから、先生はまだるこい」(有是哉、子之迂也)、国が滅びるか生きるかという緊急事態に、「名を正しくする」とはなんとまた悠長な、などと批評されるが、実はこの「正名」こそ、孔子の政治理念に直結する哲学的根本テーゼだったのだ。
Arisanのノート 『モーセと一神教』を読む http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20050206/p1
しかし、この理論自体は重要ではないと、柄谷はいう。重要なのは、フロイトがここで「精神分析」という自己の知的・学問的な体系の限界を見出しているということだと。
どういうことかというと、フロイトは宗教の歴史を「原父殺し」という出来事の反復による発展の過程ととらえることで、宗教なるものを「集団神経症」と断じたことになる。起源にある出来事を抑圧したために、その出来事が強迫的に反復されるのだというわけだ。
これは宗教への啓蒙主義的な批判の態度なのだが、同時にフロイトはそうしたものとしての(一神教、「世界宗教」)を肯定してもいるのだと、柄谷はいう。
柄谷の主張は、精神分析もまた、フロイトという「偉大な父」を創始者とする一個の「世界宗教」(一神教)であり、それ自体「集団神経症」であることを免れないという事実にフロイトが気づいているということだ。柄谷の読みでは、『モーセと一神教』の外的な文脈は、ナチスドイツの台頭ということだけではなくて、「偉大な父」フロイトに対する弟子たちの「感情転移」による精神分析運動の混乱という現実でもあったということになる。