柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

柄谷行人『政治と思想 1960-2011』平凡社ライブラリー

@jimbunshoin 人文書院
今日の平凡社:ホッピー対談 回顧2011年〜ライブラリーで3月に柄谷行人『政治と思想 1960-2011』が刊行予定。
1時間前
http://heibonshatoday.blogspot.com/2011/12/2011.html


公開講演会「中国の直面する問題 / <世界史の構造>における中国」が開催されました。
 賛助講演者の柄谷先生は,近著『世界史の構造』の趣旨を説明したうえで,「略取と再分配」の交換性に基づいた「世界=帝国」と,「商品交換」の交換性に基づいた「世界=経済(帝国主義/資本主義)」とを分別したうえで,現在資本主義が行き詰まるなかで「帝国」が再度視野に入ってくるが,「帝国」の原理は実はアジアで形成されたのであり,ローマ帝国ペルシャの帝国の原理を模倣したとして連続的に見るべきである,その帝国の原理はむしろ中国の連続する帝国の歴史に歴然としている,現在世界は「帝国」の方向への再編成が進んでいるが,中国は元々の「帝国」の原理を失わずにいたところに他との違いがある,と論じました。
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/news/news.php?id=WedDec281733002011


書評:アレンカ・ジュパンチッチ『リアルの倫理』冨樫剛訳 河出書房新社
                                   小泉義之

※初出:『文學界』2003年6月号

 本物である。ジジェクが序文を寄せて、「私ともあろう者がこの著者に先を越されるとは! こんなヤツは、本なんか書く前にさっさとくたばってしまえばよかったのだ!」と書いているが、ジジェクはマジである。カント論とラカン論においても、文学論においても、本物である。現代思想が閉塞していると感じている人、そこから抜け出したいと思っている人に、広く読んでほしい書物である。
 ジュパンチッチが指摘するように、近年のカント解釈はまったくダメである。ロールズハーバーマスアレントの解釈(柄谷行人トランスクリティーク』はこの段階にある)は、すべてダメである。カントの凄まじさを見逃しているからだ。カントは、日常的な「功利主義の倫理」を断ち切って、「欲望の倫理」を導入したのである(浅田彰『構造と力』はこの段階にある)。しかし、カントを越えて進まなければならない。ラカンは、欲望の倫理を突き破って、「欲動の倫理」を導入したからだ(スガ秀実『「帝国」の文学』はこの段階にある)。しかし、ラカンも越えて進まなければならない。欲動を基礎にした「新しい倫理」「リアルの倫理」を築かなければならないからだ。日常生活の「病的」な倫理から、欲望の倫理へ。欲望の倫理から、欲動の倫理へ。欲動の倫理からリアルの倫理へ。これが本書の基本的方向である。
例解を与えておく。誰もが、他者危害原則を自明と見なしている。他者に危害を及ぼさない限り自己決定で何をやっても許されるが、自己決定が他者に危害を及ぼすのを防ぐためには規制が不可欠であるという原則である。これは立場の違いを越えて、政治的かつ倫理的な公準となっている。しかし、こう反問してみよう。他者に危害を及ぼさずには果たせない義務があるとしたら、どうなるのか。そもそも、他者を傷つけない恋愛などがありうるだろうか。他者に不幸をもたらさない正義などがありうるだろうか。他者を傷つけない誕生や死去がありうるだろうか。恋愛や正義が、誕生や死去が、義務ないし使命に似たことであるとしたら、どうなるのか。
 こんなとき、誰しも、二つの道のどちらかを選択するだろう。一つは、他者に危害を加えるわけにはいかないから義務に背くことは仕方がないと諦める道だ。もう一つは、義務を忠実に遂行することによって他者に危害を加えてしまう道だ。前者の言い訳は誠実に見えるが、「根源的な嘘」にすぎない。大人は子どもを口実に多くのことを諦める。人はリスクを口実に実力行使を回避する。折り合いをつける口実ならいくらでもある。後者の言い分は勇敢に見えるが、苦悩する他者を見たいという欲求を隠し持つ欺瞞にすぎない。大人は愛を名分に鞭を振るう。医療者はインフォームド・コンセントを名分に、統治者は安全保障を名分に、人間を恐怖させる。残虐な欲求を隠蔽する名分ならいくらでもある。ジュパンチッチは、こんな二つの道とは別の第三の道を探求している。
 もう一つ例解を与えておく。倫理の基盤には、奇怪な選択肢がセットされている。日常的な倫理においては、「金か命か」という選択肢がセットされている。ここでは、一方の選択肢(命)は、両方の選択肢を可能にする条件になっているのに、命が惜しければ金を出せ、と脅迫を迫られているかのようである。そんな風にして、日常的な生命=生活が保守される。税金を納め、医療費を支払い、年金を積み立て、人間の安全保障のために献金するのだ。欲望の倫理においては、「自由か死か」という選択肢がセットされている。ここでは、自由を選択したのでは凡庸な生命=生活を保守しただけになるから、死を選択することによって自由を証せ、と脅迫を迫られているかのようである。そんな風にして、「安楽・尊厳か死か」と迫られて、安楽や尊厳を証すべく死を選ぶのだ。(なお、「自由か命か」という奇怪な選択肢を基盤にする倫理を想定してみることができる。東浩紀動物化するポストモダン』はこの段階にある)。ジュパンチッチは、こんな選択肢の彼岸を探求している。
 では、リアルの倫理は、どのようなものであろうか。ジュパンチッチは、ソポクレス『オイディプス王』とクローデル『人質』の見事な読解を通して、その方向を指し示しているが、ここでは触れないでおく。
私は、現代思想を内在的に解体するにはジュパンチッチのように進むしかないと考えてはいるが、それでも批判を一つだけ記しておきたい。ジュパンチッチは、「大義に最後の最後までしがみつく」ことによって大義そのものを崩すこと、「欲望の倫理を極限まで突き詰める」ことによって欲動に達すること、そしてその先の「残り滓としての存在」を肯定することを呼びかけている。この呼びかけは、煮詰まった(振りをする)人には聞かせてやりたいが、動物化した人間に聞かせたところで、馬の耳に念仏であろう。たとえ馬にでも念仏は聞かせるに値するとは思うが、それが必ず空念仏に終わってしまうのは、「最後」や「極限」なる標語に錯誤があるからだ。問題の核心は、ジュパンチッチが、欲動を本能と言い替える蛮勇を振るえるかにかかっている。
 一九八九年の激動に出合ったとき、いつか東欧から立ち上がってくる思想家に俟たなければ、その意味を教えてはもらえないだろうと思っていた。だから、ジジェクが登場したときはひそかに快哉を叫んだし、一九八九年にリュブリアナ大学哲学科を卒業したジュパンチッチが登場したときは、ようやく片が付けられたと感じもした。そんな個人的な感慨は別にしても、本書が現代の最先端に位置する書物であることは間違いがない。
 なお、訳者の冨樫剛が紹介しているように、英語圏ラカン派とジジェク派には、読み物としても面白い文献が沢山ある。本書をきっかけに、翻訳が続くことを期待する。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/s/ky01/2009_2_2.doc