ジャック・デリダ『ならず者たち』(みすず書房)
ジャック・デリダ "Voyous: Deux essais sur la raison"
『ならず者たち』(鵜飼哲・高橋哲哉訳、みすず書房)
『友愛の政治』で私が試みたのは[……]倫理、法、政治における、そしてとりわけある種のデモクラシー・モデルにおける、ギリシア的、アブラハム的、ユダヤ的な、しかしながら特にキリスト教およびイスラム教的な、兄弟の形象の特権視を脱構築することだった。
国家、国民国家、君主などの主権であれ、あるいはデモクラシーにおける人民主権であれ、およそ一切の主権以前のところで、自己性は正統的主権の原理を名指しているのであり、ある権力あるいは勢力の、クラトスあるいはクラシーの、信用されたあるいは承認された至上権を名指している。
デモクラシーとは、まさしくこれ、すなわち力(kratos)、主権的権威という力であり(主権的とはkuriosあるいはkurosであり、決定する権力、決定的である権力、優越する権力、納得させ打ち勝つ[avoir raison de]権力、法の力を与える(kuroo)権力、こうした権力をもつということである)、そのようにして人民(demos)の権力にして自己性なのである。
統制的理念は、何かそれよりもよいものがなければ[……]最後の頼みの綱であり続ける。
こうした思考が[……]カントのアンチノミーに疑いなく負っているものを私はよく承知しているが、私はカントのアンチノミーにまったく別の折り目を刻みつけなければならないと思うのである。
このように、こうした不‐可能事は(統制的)理念ないし理想ではない。
カントの統制的理念の意味で、存在へと到来するものの領野を構成する。
『デリダ 政治的なものの時代へ』(岩波書店)
チャー、ゲルラク「イントロダクション」
他者は個人(あるいは主権者)の水準において作用するだけではなく、デモスそれ自体にもつきまとうのであり(デモスは自己自身から分離されている)、したがってデモスの権力そのもの、つまりクラトスにもつきまとうのである。
バリバール「終末論対目的論――デリダとアルチュセールの中断した対話」
この論文を書き終えようというとき、私は現代の指導的マルクス主義者、サミール・アミンの近著、興味深いことに『資本主義の亡霊たち』 (Samir Amin, Spectres of Capitalism: A Critique of Current Intellectual Fashions (Monthly Review Press, 1998)) という書物を見つけた。