柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

奇蹟伝承

エスの奇蹟伝承で聖徳太子の片岡飢人伝説を思い出した。


聖徳太子(574年 - 622年) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
「厩の前で生まれた」、「母・間人皇女は救世観音が胎内に入り、厩戸を身籠もった」などの太子出生伝説に関して、「記紀編纂当時既に中国に伝来していた景教キリスト教ネストリウス派)の福音書の内容などが日本に伝わり、その中からイエス・キリスト誕生の逸話が貴種出生譚として聖徳太子伝説に借用された」との可能性を唱える研究者(久米邦武が代表例)もいる。

しかし、一般的には、当時の国際色豊かな中国の思想・文化が流入した影響と見なす説が主流である。ちなみに出生の西暦574年の干支は甲午でいわゆる午年であるし、また古代中国にも観音や神仙により受胎するというモチーフが成立し得たと考えられている(イエスよりさらに昔の釈迦出生の際の逸話にも似ている)。


日本書紀』によると次のようなものである。

推古天皇21年12月庚午朔(613年)皇太子が片岡(片岡山)に遊行した時、飢えた人が道に臥していた。姓名を問われても答えない。太子はこれを見て飲み物と食物を与え、衣を脱いでその人を覆ってやり、「安らかに寝ていなさい。」と語りかけた。太子は次の歌を詠んだ。

しなてる 片岡山に 飯に飢(ゑ)て 臥やせる その旅人あはれ 親無しに 汝生りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ

翌日、太子が使者にその人を見に行かせたところ、使者は戻って来て、「すでに死んでいました」と告げた。太子は大いに悲しんで、亡骸をその場所に埋葬してやり、墓を固く封じた。数日後、太子は近習の者を召して、「あの人は普通の者ではない。真人にちがいない」と語り、使者に見に行かせた。使者が戻って来て、「墓に行って見ましたが、動かした様子はありませんでした。しかし、棺を開いてみると屍も骨もありませんでした。ただ棺の上に衣服だけがたたんで置いてありました」と告げた。太子は再び使者を行かせて、その衣を持ち帰らせ、いつものように身に着けた。人々は大変不思議に思い、「聖は聖を知るというのは、真実だったのだ」と語って、ますます太子を畏敬した。