柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

藤原紀香は渋谷の舞台で見ました

sasaki_makoto2006-11-16

サマンサタバサは「奥様は魔女」と無関係らしい。


「代打オレ」TシャツよりジェリーのTシャツですか。


ドゥルーズマゾッホとサド』(蓮實重彦訳、晶文社


 第二期は、大地の女神デメテール的なもので、アマゾーヌ的社会にその黎明期を迎える。


 最後に、家父長的な、もしくはアポロン的な体系が力を帯びるが、それがアマゾーヌ的な堕落形態、あるいはディオニソス的でさえある堕落形態のうちに母権制を退化させることもままあったのである。


 その高次にして非人称的なモデルは、無限運動と永久革命無政府主義的制度のうちにある。


 われわれは、ユーモアというものがフロイトの思惑どおりに強力な超自我を表現するものとは思わない。たしかにフロイトは、ユーモアの一部をなすものとしての自我の二義的な特典の必要を認めていた。彼は、超自我の共犯による自我の侮蔑、不死身性、ナルシスムの勝利ということを口にしていた。ところが、その特典は二義的なものではない。本質的なものなのである。だから、フロイト超自我について提示するイメージ――嘲笑と否認を目的としたイメージを文字通りにうけとるのは、罠にはまることにほかならない。超自我を禁止するものが、禁断の快楽獲得のための条件となるのだ。ユーモアとは、勝ち誇る自我の運動であり、あらゆるマゾヒスト的帰結を伴った超自我の転換、あるいは否認の技術なのである。というわけで、サディズムに擬マゾヒズム性があったように、マゾヒズムにも擬サディズム性が存在するのだ。自我の内部と外部とで超自我を攻撃するこのマゾヒズムに固有のサディズムは、サディストのサディズムとはいかなる関連も持ってはいない。


フロイトを特権化してはいけないのかもしれない。マルクスもカントも。

偶然『マゾッホとサド』を読んでますが、最近の「いじめ・自殺」問題に通じますね。


藤原紀香 http://www.norikanesque.com/