柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

恵比寿、蘇我、守谷、誉田

sasaki_makoto2006-12-01

続日本紀によれば、天平五年(733)頃、
武蔵国埼玉郡」があったらしい。


現在の葛飾

東京都・葛飾
千葉県・東葛飾郡
埼玉県・北葛飾郡


東京の「両国」は、隅田川を挟んだ
武蔵・下総の二国の事だったようだ。



日本書紀 二』(岩波文庫

垂仁天皇3年(前27)3月、天日槍についての注。


四 以下、本条と八十八年七月条は天日槍伝説。記では応神記に見える。→補注6−二。日槍は、応神記に「海檜槍」。三国遺事巻一に、新羅東海の浜に延烏郎、日本に渡って王となり、その妻細烏女また追い至って貴妃となるの説話がある。


二 蘇那葛叱智伝説と天日槍伝説(二〇頁注八) 蘇那葛叱智伝説は「渡来帰化」記事であって、前者が「任那国」の使人、後者が「新羅国王子」とされ、どこまでも割り切られている。けれども伝説としてみるとき、両者は同時にそして一括して考える必要がある。
 まず蘇那葛叱智は、崇神六十五年に来朝して、垂仁二年に帰国した。書紀は垂仁二年紀帰国の記事に付けて、二つの異伝を分注としてあげている。その一は「意富加羅国王」の子「都怒我阿羅斯等」(またの名は「干斯岐阿利叱智干岐」)の「帰化」の次第と、その本国の国名を「弥摩那国」とするいわれと、その国と新羅国と相怨む起りとの説明であり、その二は、都怒我阿羅斯等が国に在るとき、黄牛を失って白石を得、その白石が童女になり、その童女が東方に向ったのを追い求めて日本に入ったこと、童女は難波及び豊国の比売語曾社の神となってまつられていることを語る。都怒我阿羅斯等(干斯岐阿利叱智干岐)が蘇那葛叱智であるとは明示していないが、文意から推して、そういうたてまえで書かれている。故にもしも右の三つの名の新古前後を考定するとすれば、次の如くなるであろう。阿羅斯等は継体二十三年紀に見える実在の加羅王の名阿利斯等に同じい。

  阿羅斯等→蘇怒我阿羅斯等→干斯岐阿利叱智干岐→蘇那葛叱智

 次に天日槍は、蘇那葛叱智が帰国したすぐ翌年、垂仁三年に来帰し、神宝七物を将来した。同八十八年に、その神宝を但馬なる日槍の曾孫清彦に詔して献ぜしめたところ、神宝の一なる「出石刀子」が、自然に淡路島に至り、今にそこにまつられているという。そして前条(三年紀)には、分注をつけて、本文の記事とややことなり、しかも大いに詳しい伝えをあげている。詳しい伝えとは、天日槍が東渡して播磨国に至り、さらに近江国若狭国を経て但馬国に落ち着く次第、ならびに但馬における子孫の系図に関する叙述である。しかるに応神記の「天之日矛」の渡来記事は、次の七つの要素から成り立っている。

 (一)新羅の阿具沼のほとりで、ある賤女が日の光にさされて妊み、赤玉を生んだこと。
 (二)賤女の夫が、牛を殺さんとしたという嫌疑を受けて、赤玉を天之日矛に与えたこと。
 (三)赤玉は嬢子となり、天之日矛の妻となったこと。
 (四)天之日矛の妻は日本に渡り、難波に至ったこと(難波の比売碁曾の社の阿加流比売の神)。
 (五)天之日矛は妻を追って来り、難波に入らんとして入れられず、但馬国に留ったこと。
 (六)天之日矛から高額比売命に至る系図
 (七)天之日矛の持ち渡った神宝八種。

 右のうち前半、(一)から(四)までの要素と大同小異のものが、蘇那葛叱智伝説の中にあることが注意される。古事記の一貫した記事が、すでに合成伝説たることは疑う余地なく、従って記と紀といずれか先行するかは、俄に断じがたいけれども、記の記載は、蘇那葛叱智伝説が、天日槍伝説から派生、拡充されたものであることを暗示しないであろうか。蘇那葛叱智伝説は、天日牟伝説を部分的に借用してつくられたものといえよう。そして天日槍伝説の構成要素として列挙されるものは、左の三つに帰納されるであろう。

 (一)播磨・但馬の地方における帰化韓人集団の存在と、その統領家の家系。
 (二)集団の中心としての神社。
 (三)神社のシンボルとしての、いわゆる神宝。

 ちなみに、韓人の東渡・東来伝説は、新羅にも存在していた。三国遺事、巻一、延烏郎・細烏女の条によれば、新羅第八代阿達羅王の四年丁酉に、東海の浜に延烏郎・細烏女の夫婦があった。一日、延烏郎は一巌に乗って日本に渡った。日本国人は彼を非常の人として、王とした。細烏女は夫の帰らぬのをいぶかり、夫を求め、またその巌に上って日本に渡り、夫婦再会、女は貴妃となった。このとき新羅では日月が光を失った。日者は奏して、日月の精が我国(新羅)に降って在ったのに、今や日本に去ったので、この日月光を失うという事変が生じたのであるといった。王は使をつかわして二人を求めた。延烏は使者に「自分がこの国(日本)に到ったのは天の然らしむるところである、今、どうして帰られよう。しかし自分の妃(細烏)が織った細絹がここにある、これをもって天を祭ったらよかろう」とその細絹を使者に与えた。王は使者からの報告によって、そのようにしたら、日月はまた旧の如く輝りかがやいた。その細絹は御庫におさめて国宝とし、その庫は貴妃庫と名づけ、天を祭った地を迎日県(都祈野)という。
 なお、天日槍伝説は、記紀の他、釈紀所引筑前風土記逸文は、仲哀・神功の西征を迎えた台土の県の五十跡手(いとて)が、高麗の国の意呂山に天より降り来し日牟の苗裔だと述べたと伝え、播磨風土記は、天日槍と葦原醜男や伊和大神との土地争奪をしばしば記している。