柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

社は土地の神であるという

フッサールデカルト省察』(岩波文庫

 おそらく、超越論的な我(エゴ)への還元は、一見すると独我論的にとどまるという印象を伴っているかも知れないが、それがその固有の意味にしたがって一貫して遂行されると、それは超越論的な間主観性現象学へと導かれ、これを介してさらに、超越論哲学一般へと展開されることになろう。実際に、超越論的な独我論は、哲学的には低次の段階にすぎず、それに対し、超越論的な間主観性はより高次の基づけられた段階にあり、この問題圏を正しい仕方で持ち出すことができるためには、超越論的な独我論はそのようなものとして、方法的な意図から限界づけられねばならない。

  省察する自我である私が、現象学的な判断停止(エポケー)によって、絶対的で超越論的な我(エゴ)へと還元される時、私は独我(ソルス・イプセ)になってしまうのではないだろうか。現象学という標題のもとで一貫した自己解明を行っている限り、私は独我(ソルス・イプセ)に留まるのではなかろうか。それゆえ、客観的な存在の問題を解決したつもりになって、もう哲学として登場しようとしている現象学は、超越論的な独我論という烙印を押されるべきではないだろうか。

 私は、不本意ながら、我(エゴ)である自分を一つの独我(ソルス・イプセ)と見なし、構成的な働きに対して最初の理解を得た後には、はやくも、あらゆる構成的な内実を、あいかわらずこの唯一の我(エゴ)がもつ自分固有の内実に過ぎないと見なすことになる。

 順序から言えば、哲学的学問分野のそれ自身最初のものは、「独我論的」に制限された「自我論」、原初的に還元された我(エゴ)の「自我論」であり、その次に来るのが、この「自我論」に基づけられた間主観的な現象学、しかも、まずは普遍的な問いを扱い、それから初めてアプリオリな諸学へと分岐していくような普遍性における間主観的な現象学であろう。


柄谷行人『探究II』の独我論批判も
それほどオリジナリティは無いらしい。


541 :吾輩は名無しである:2009/07/28(火) 17:06:33
しかしなんだかんだ言ってもあの中で一番成功したのはPikarrrコテだよ
kyrieとか純一とかしゅらけんとか牽引とかラビとか誰にも必要とされなかったわけで。
Pikarrrはジャーナリストの佐々木に認められたわけだから。
今気付いたが、Pikarrrは誰にも必要とされてなかったわけではなかったのだよ。
佐々木氏に必要とされている1人間だということだ。


佐々木俊尚さんの事らしい。
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