柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

政権交代も東海地震も起こるらしい

ジャン=ジャック・ルソー『新エロイーズ』

"tel est le neant des choses humaines qu'hors l'Etre existant par luimeme, il n'y a rien de beau que ce qui n'est pas."

人間のことごとの虚無性がかくの如くであるから、それ自身で在る「存在」を除けば、在らぬものより他に美しいものはない。


ポール・ド・マン『死角と明察』 "Blindness and Insight"

 修辞学的用語を故意に強調した「時間の修辞学」は、語彙と調子の上だけではなく、内容においてもひとつの変化であると私にとって見受けられたものを予知している。そこに出てくる専門用語は当時流布していた意識や時間などの主題にかかわる用語と、まだまぜこぜに絡みあわされている。しかしながらそれは、少なくとも私にとっては生産的であるとのちに明らかになったひとつの転換を示していた。

 再生の悦びを感じたと思うとき、そのような変化が実際にあったのか、それとも、以前の未解決なままのオブセッションを微妙にちがう形で繰り返しているに過ぎないのか、それは私自身には最後までわからないであろう。

 現代批評のいくつかの問題は、生きた経験の豊かさのために存在論的に還元された荒涼とした世界を見捨てようとする動きにまで遡ることができる。批評という行為は、作品のなかで語っている超越的な自己のために個人的な自己を忘れることを意味するが故、規範的な価値を勝ちえることができるのである。それは精神の豊饒さや調和であるよりも、精神の禁欲主義であるが、その禁欲主義は存在論的洞察にまで導くことのできるものである。


ポール・ド・マン「マダム・ド・スタールとジャン=ジャック・ルソー
"Madame de Stael et Jean-Jaques Rousseau"

『デルフイーヌ』のなかで、マダム・ド・スタールはオブセッションに近い執拗さをもって、すべてがヒロインを拒否(リナンシエイション)へといざなうような状況に彼女を置く。そしてデルフイーヌは同じ執拗さをもってその機会を毎回退けるのである。厳粛な場で誓った言葉に対する忠誠心も、人々のもっともな幸福に対する配慮も、今ここで自分の幸福への願望を満たす可能性を、デルフイーヌに拒絶(リナウンス)させるものはなにひとつない。しかも、自分の小説に関する論評のなかでマダム・ド・スタールがヒロインが取りえた別の道を示唆するとき、それは犠牲の名においてではなく良識の名においてである。拒絶(リナンシエイション)はそれ自身望ましいものではなく、大きな力をもつ社会の目を前に必要であった。デルフイーヌの執拗さは小説家の同様の決断を反映している。内省に必要な距離を自己に対して確立することは(ルソーのように)理解できても、その内省を他者の前で自己を正当化したい欲望に仕えさせるべきではないことをマダム・ド・スタールは理解できなかった……。
 自己正当化を自己認識にもっていくには内省が拒絶(リナウンス)せねばならない。悲しみに打ち克てるだろうという望みだけではなく、悲しみによって自己を正当化できるという、すなわち、自己の栄光のために悲しみを仕えさせたいという望みをもである。ルソーはそれをよく知っていた。かれは自分の小説の中心にジュリーの拒絶(リナンシエイション)を位置づけた。そしてこの拒絶(リナンシエイション)を通じて殉教者を創り上げることを、敢えて拒んだのである。『新エロイーズ』第二部を支配する、醒めた幸福感は、泣きごとを訴えてやまないデルフイーヌの不幸とは対照的である。舞台となるクラランスの空気は本質的な内省のそれである。官能の悦びや英雄的行為などという疑わしい快楽にしがみつく替わりに内省そのものを選ぶことによって、小説家は、かれ個人の成功よりも、かれの虚構物である小説の成功を選んでいるのである。クラランスの世界は純然たる虚構の世界であり、それは困難な認識に基づいている。そこで人々は、幸福の破綻は他者のせいではなく、存在の律動そのものに帰するということを知っている。虚構の世界の優位性は、自己を拒絶(リナウンス)することによって確立される。
 マダム・ド・スタールを貶すことはわれわれの意図するところではない。彼女の作品は傑作といわれるものの本質をより深く感得することを促す類いのものである。ルソーの一見した肯定性は、かれの作品の基本を成し、その代償を払うことによってのみ作品が大成することを可能にした否定性と拒絶(リナンシエイション)の深さを隠蔽する危険を孕んでいる。『新エロイーズ』の批評が辿った歴史はそれをわれわれに示そう。


ポール・ド・マン "Introduction" to Selected Poetry of Keats

 ロマン派文学は、そのもっとも高みに至った瞬間においては、個人的な自己というその根源とのつながりを失うことなく、もっとも大きな普遍性を経験のうちに包含している。『告白録』のなかでルソーは、いかに若いころ、かれ自身が犠牲となった不正の行為が、普遍的な道徳的感覚をかれのなかに目覚ませるに至ったかということを述べている。「これを書くとき鼓動の早まるのを私は感じる。十万年生きようとあのときのことは忘れられない……」。この普遍化された激情の雄大さこそが、ルソーを『新エロイーズ』を書いた詩人でも『社会契約論』を書いた道徳哲学者でもあることを可能にしたのである……。今日、われわれが、本質的な自己認識に基づく哲学的普遍性に至ることは、過去に比べてますます少なくなってきている。自己意識が自己正当化より高みに達することも稀である。われわれのロマン派文学の批評がこのようにしばしば的が外れるのも当然のことだといえよう。偉大なロマン派の作家たちにとって、自己意識は道徳的な判断に至るために必要不可欠な第一歩だったのである。キーツの晩年の詩はかれが同じ認識に達していたことを示している。否定の道を辿ってかれがそこに達したということは、われわれにとって、かれを、より意味のある存在にするものであろう。