北海道の当麻ではない
序論
つぼみは、花が咲くと消えてしまう。そこで、つぼみは花によって否定されると言ってもよい。同じように、果実によって花は植物の偽なる定在と宣告され、植物の真として果実が花の代りとなる。
精神は、自己自身で、絶対的分裂のなかにいるときにだけ、自らの真理をえている。精神がこの威力であるのは、否定的なものから目をそらすような、固定的なものであるからではない。われわれが何かについて、それは何物でもないとか、偽であるとかいって、それに片をつけ、それから離れて、別のものに移って行く場合そのようなものであるからではない。そうではなく、精神は、否定的なものに目をすえて、それに足を止めるからこそ、そういう威力なのである。このように足をとめることが、否定的なものを存在に向けかえる魔術である。
小林秀雄「当麻」
美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。
スラヴォイ・ジジェク『パララックス・ヴュー』(山本耕一訳、作品社)
The parallax view: Karatani’s 'Transcritique. On Kant and Marx' - Slavoj Žižek
http://libcom.org/library/the-parallax-view-karatani-s-transcritique-on-kant-and-marx-zizek
Kojin Karatani
http://en.wikipedia.org/wiki/Kojin_Karatani
第一巻(1712―1719)
二、わたしひとり。わたしは自分の心を感じている。そして人々を知っている。わたしは自分の見た人々の誰ともおなじようには作られていない。現在のいかなる人ともおなじように作られていないとあえて信じている。わたしのほうがすぐれてはいないにしても、少なくとも別の人間である。自然がわたしをそのなかへ投げこんで作った鋳型をこわしてしまったのが、よかったかわるかったか、それはこれを読んだ後でなければ判断できぬことだ。