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永遠平和のために 哲学的草案

イマヌエル・カント "Zum ewigen Frieden Ein philosophischer Entwurf"
「永遠平和のために 哲学的草案」(一七九五年、小倉志祥訳) 『カント全集 第十三巻 歴史哲学論集』(理想社

永遠平和のために

第一章 これは国家間における永遠平和のための予備条項を含むものである。
 1 「将来の戦争のための素材を秘かに留保してなされた平和条約締結は決してかかる締結とみなされるべきではない」。

 けだし、もしそのような条件であれば、それは実は単なる休戦であり、敵対行為の延期に過ぎず、平和ではないのであり、平和とはあらゆる敵意の終末を意味し、永遠なるという形容詞を附加することさえすでに怪しげな重語であると言えることであるからである。

 2 「独立して存続している国家は(その大小はここでは問うところではない)いずれもすべて継承、交換、買収、あるいは贈与によって他の国家に取得せられるべきではない」。

国家そのものは幹としてそれ自身の根をもっているものであるから、国家をつぎ枝として他の国家に接ぎ合わせることは、道徳的人格としての国家の現存を破棄して道徳的人格を物件となすことを意味し、かくして根源的契約の理念に矛盾することになるが、この理念なくしては国民〔民族〕に対する法はおよそ考えられないのである。

 3 「常備軍(miles perpetuus)は時と共に全廃せられるべきである」。

 けだし常備軍は常に戦備しているように見える用意のできていることによって、他の国々を絶えず戦争の脅威でおびやかし、こうして相互に際限を識らぬ兵備の量において優劣を競うように刺戟し、そしてこれに費やされる戦費によって遂には平和の方が短期の戦争よりもなお一層重荷となってくるので、この負担を脱するために常備軍そのものが攻撃戦の原因となるからであり、それのみでなくこれに加うるに、人を殺すために或いは人に殺されるために兵に雇われることは、人間を単なる機械や道具として他のもの(国家)の手のうちで使用することを含意しているように見えるが、このように人間を使用することは、おそらくわれわれ自身の人格のうちなる人間性の権利と合一せられないであろうからだ。

 4 「国家の対外的事件に関連して、いかなる国債も起されるべきではない」。

 国内経済のために(例えば道路の改良、新たなる植民、凶年を配慮した貯蔵庫の設置、等々のために)国内あるいは国外に援助を求めるために、国債という方策を採ることは疑わしくはない。しかし負債のクレジット組織は権力の相互に拮抗する機構として使われるならば危険なる金力であり、この組織においては負債は見さかいもなく増大するけれども、(負債の支払いをすべての債権者から同時に要求されることは生じないから)国にとって現在の必要事のために使用するように常に保証されているものであるが――このようなクレジット組織は今世紀における商業を営む国民の明敏な発明である――、危険なる金力とは交戦のための宝庫ということであり、この宝庫はあらゆる他国の財貨を総計したものよりも勝るものであり、ただいつかはさし迫ってくる租税の不足によってのみ枯渇する、(けれども、この租税の不足もクレジット組織が産業と商業に反作用することを介して通商貿易を活気づけることによってなお長く延期せられることでもある)。このように交戦することの容易であるということは、人間的自然に固有であるように見えるところの、権力所有者の交戦への傾向性と結びついており、したがって永遠平和の一つの大きな妨害であり、この妨害となるものを禁止することは、それだけにますます永遠平和の一つの予備条項でなくてはならぬであろう、なぜなら遂には到来する避けられない国家の破産は多くの他国をも何も負債もないのに共に損害のうちに必ず捲き込むことになるが、これは他国に対する公的な侵害であるということになるからである。

 5 「いかなる国家も他国の体制と統治に暴力を行使して干渉すべきではない」。

 けだし何が或る国にそのような干渉をする権利を与えうるであろうか?

 6 「いかなる国家も他国との戦争において、将来の平和の際に相互の信頼を不可能ならしめざるをえないような敵対行為を決して認可すべきではない、例えば暗殺者(percussores)や毒殺者(venefici)の任命、降服条件の破棄、敵国における暴動(perduellio)の扇動、等々」。

 このようなことは不名誉なる戦略である。

 上記の諸法則は客観的には、すなわち主権者の意向に関しては、すべてはまったく禁止法則(leges prohibitivae)であるけれども、その内の若干(例えば第一項、第五項、第六項)は事情の如何にかかわらず妥当する厳格な様相のもの(強制法 leges strictae)であり、それに違反することの廃止を直ちに要求するが、これに対して他のもの(例えば第二項、第三項、第四項)はもとより法規制の例外としてではないけれども、その執行に関しては、事情の如何によっては、主観的に行為者の権能を拡大し(任意法 leges latae)、その執行を延期する許可を含むものであるが、しかし延期する許可を含むといっても、その目的が見失われてもよいのではなく、延期する目的は、例えば第二項によれば或る国家から奪い取ったことになる自由を償還することを来ることのない日まで(すなわちアウグストゥスが約束するのを常としたように、ギリシアの朔日まで ad calendas graecas)延期する、したがってその自由を償還しないことをではなく、ただそのことが早急になされて却ってその意図そのものに反することが生じないために猶予を許すのみである。

* はたして命令(lex praeceptiva)と禁止(lex prohivitiva)の外になお純粋理性の許容法則(lex permissiva)がありうるかどうかは従来疑われてきたが、これは理由がなくはない。

  私はこれでもってただ付随的に、体系的に区分する理性におのずから現われてくる許容法則(lex permissiva)という概念を自然法の学者たちに気づかせたかったのであり、とりわけ市民法(法令に関する法則)においてはこの概念がしばしば使用されているからであるが、ただし禁止法則がそれ自身だけで成立しているのに対して、許容は制限的な条件として(そうあるのが当然であるが)市民法則のうちに共に入れ込まれず、例外事項のもとに置かれるという相違が結びついている。

第二章 この章は国家間における永遠平和のための確定条項を含む。

 並存して生活する人々の間の平和状態は決して自然状態(status naturalis)ではなく、自然状態はむしろ戦争の状態である、すなわち、たとえ常に敵対行為が勃発しているのではないとしても絶えず敵対行為によって脅かされている状態である。

* 人は何人に対しても、ただ彼が自分をすでに行為によって害している場合を除けば、敵対的に行動してはならないであろうということは一般に承認されており、このことはまた、当事者双方が市民的・法律的状態のうちにいるならば、全く正しいことでもある。

  すべての法的な体制はしかし、その体制のもとにある人格に関しては、次のごとくである。
  (1) 或る民族に属する人々の国民法による体制(ius civitatis 市民法)、
  (2) 相互関係のうちにある諸国家の国際法による体制(ius gentium 万民法)、
  (3) 人々と諸国家が相互に影響し合う外的な関係のうちに立ち、一つの普遍的な人類国家の市民と見なされうる限りにおいて、世界市民法による体制(ius cosmopoliticum 世界市民法)。

永遠平和のための第一確定箇条
 各国家における市民的体制は共和的であるべきである。

 共和的体制とは、第一に社会の構成員の(人間としての)自由の諸原理に従って、第二にすべての人間の(臣民として)唯一であり共同的である立法への依存の諸原則に従って、第三に彼ら人間の(国民〔国家市民〕としての)平等の法則に従って設立せられた体制のことであり*、――これは根源的契約の理念から発生し、その上に民族(フォルク)のあらゆる法的立法が基礎づけられなくてはならぬ唯一の体制である。

* 法的(したがって外的)自由は、人がよくなすのを常とするように、他人に不正を為しさえしなければ、自分の欲するすべてのことを為しうるという権能によっては定義せられえない。

  ところで臣民としての全国民の平等の権利に関しては、世襲貴族を承認するかどうかという問いの答えにおいては問題はただ次のことにのみ関わっている、すなわち国家によって承認された(或る臣民の他の臣民に優先する)地位は功績に先行すべきか、あるいは逆に功績が地位に先行すべきであるか、このことである。

 ところが共和的体制は、法概念の純粋な源泉から発生したというその根源の純潔性のほかにさらに望まれている結果、すなわち永遠平和への展望をもっているが、その理由は次のごとくである。――戦争を始めるべきか否かを決議するためには、(このような体制においてはそうせざるをえないように)国民の賛成が求められるならば、国民は戦争のすべての災厄を自分自身の上に引き受けることをも決議せざるをえないから、国民がこんなに悪しき戯れを開始することに対して非常に疑惑的となるのは極めて自然のことである、(国民が自分自身の上に引き受ける戦争の災厄には次のごときものがある、まず彼ら自身が戦い、自分たち自身の財産から戦争の費用を供給し、戦争が背後に残す荒廃を辛苦しつつ改善しなくてはならず、これらの禍のあり余るほどのものに加えて、最後にはなお平和それ自体をさえ苦々しく感じさせる、決して((近づいてくる、次々に生ずる新たな戦争のために))償却しえない負債の重荷を自分たちが引き受けなくてはならぬこと、などである)、しかるに、これに対して、臣民が国民〔国家市民〕ではないような体制、したがって共和的ではない体制においては、右のように疑惑される悪しき戯れもこの世において最も考慮を要しない事柄であるが、なぜならここでは元首は国家の一構成員ではなく国家の所有者であり、彼は戦争によって彼の食卓、狩猟、離宮、宮廷の宴会、等々に関して少しも失うことがなく、したがって戦争を一種の遊覧会のごとくに見なして些細なる原因から決議し、しかも体裁をつくろうために、常時そのために準備してある外交団に戦争を正当化することをどうにでも委せうるからである。

 共和的体制が(普通に行われているように)民主的体制と混同せられないために、次のことが注意されなくてはならない。

後の形式は統治の形式(forma regimins)であり、憲政組織(それによって群衆が一民族となるところの普遍的意志の作業)に基づいて、国家がその絶対的権力を行使する方法に関するものであり、そうしてこの方法との関係において共和的であるか専制的であるかのいずれである。共和政体とは執行権(統治)を立法権から分離する国家原理であり、これに対して専制政体とは国家がみずから与えた諸法則を国家が自主的に遂行するという国家原理であり、したがって公共的意志の現われではあるが、公共的意志と言っても、これは統治者によって彼の私的意志として取り扱われる限りの公共的意志である。――右の三つの国家形式のうちで言葉本来の意味における民主政治(デモクラティー)という形式は必然的に専制政体であるが、なぜなら民主政治は、すべての人が一人について、場合によってはその一人に反して(それゆえ彼はそのことに同意していない)、したがって実はすべての人ではないのにすべての人と称して決議するような執行権を基礎づけているからであり、このことは普遍的意志の自己自身との矛盾であり、そしてまた自由との矛盾である。

 すなわち、代議的でないすべての統治形式は本来的に奇形である、なぜなら代議的でなければ立法者が同一の人格において同時に彼の意志の執行者でありうるからである(しかしこれは理性推論における大前提の普遍がそのまま同時に小前提において特殊をすでに自己のもとに包摂しているのではないのと同様にありえないことである)、そして民主政治以外の二つの国家体制は代議的でない統治様式の生ずる余地を与えている限り常に欠陥のあるものではあるけれども、例えばフリードリヒ二世が、私は国家の最高の従僕であるに過ぎない、と少なくとも語ったように、それらの国家体制には、代議制度の精神に即応した統治様式を採用することは少なくとも可能であるが、これに反して民主主義的体制は、そこでは万人が主人であろうと欲するから、それを不可能にしてしまう。――したがって次のように語ることができる、国家権力をにぎる人員(支配者の数)がより小さく、これに対して国家権力について代議する代表の数がより大であればあるだけ、それだけより多く国家体制は共和政体の可能性に合致し、漸近的な改革によって遂には共和政体にまで高まることを希望しうる、と。

* 支配者にしばしば授与される尊称(例えば神により油を注がれたる者、地上における神的意志の摂政者、またはその代表者というごとき尊称)は粗野な、ひとを眩惑的にする追従であるとして世の人々によってしばしば非難されてきたが、しかしそれには理由がない、と私には思われる。

** マレー・デュ・パンは天才的に響きはするが、しかし空虚な無内容な言葉で誇らしげにこう語っている、多年の経験の後に遂にポープの著名な次の格言が真理であることについての確信に到達した、と。

永遠平和のための第二確定箇条
 国際法は自由な諸国家の連盟の上に基礎づけられるべきである。

 国家としての諸民族はそれぞれが個人のごとくに評価されてよいのであり、この場合これら個人は彼らの自然状態において(すなわち外的法則に依存せず独立している状態において)並存していることによってすでに互いに害し合っており、彼らはそれぞれ自己の安全のために、そこにおいては各人に彼の権利が保証されうるような、市民的体制に類似した体制に共に入るように他に対して要求することができ、また要求すべきである。これは国際連盟(Volkerbund)と言われるものであろうが、しかしながらこの連盟は決して国際国家であってはならないであろう。国際国家と言うことのうちには矛盾が含まれているであろう、なぜなら、それぞれの国家は上なるもの(立法者)の下なるもの(服従者、すなわち民族)に対する関係を含むものであるが、しかしもし国際国家があるならば多くの民族が一つの国家のうちでただ一つの民族を形成することになってしまうであろうが、これは(われわれはここでは、諸民族がそれだけ多くの異なった国家を形成し、一つの国家に融合すべきでない限りにおいて、諸民族の相互間の権利を考察すべきであるから)当面の前提に矛盾することだからである。
 さて未開人は彼らの無法則的自由に執着し、彼ら自身によって制定せられた法則的強制に服従するよりはむしろ好んで絶えず互いに格闘し、かくして狂った自由を理性的な自由に優先させていることになるが、われわれはこれを深い軽蔑の眼をもって眺め、これは粗暴であり無作法であり人間性の動物的な毀損であるとして観察する、そうであれば、これにあい応じて、開化した諸民族は(それぞれが独自に一つの国家に統一されているが)国家間のそのような非難せらるべき状態から一刻も早く脱出するように急いでいるに違いなかろう、と人は考えるべきであろう。

* だから或るブルガリアの君主は、彼との紛争に人民のことを思う慈愛心から彼との決闘によって決着をつけようとしたギリシアの皇帝に次のような答えを与えたのである。

 人間的天性の悪意性は諸民族の自由な関係のうちにはそのように蔽われることもなく観察せられるが、(それは市民的・法律的状態においては統治の強制によって著しく隠蔽されてはいるけれども)、そのような悪意性にも拘らず、法という語が衒学的としてまだ完全に追放せられえず、またまたどの国家もそのような意見を公的に宣言するほどに大胆でもなかった事実は驚嘆せられるべきことである、けだしフーゴー・グローティウス、プッフェンドルフ、ヴァツテル、その他の人々(彼らは人を慰めんとして却って人を煩わすものたち)、彼らの法典は哲学的あるいは外交的に作成されたものであり、少しも法律的効力をもたず、またもちうるはずもないけれども(なぜなら諸国家はまさに国家としては共同体的な外的強制のもとに立っていないからである)、彼らは今でも依然として忠実に戦闘開始の正当化のために引用せられているからであるが、ただし或る国家がこんなに重要な人々の証言でもって武双された議論によって動かされて自国の意図を放棄するに到ったという実例はこれまでに一つもないのである。

 諸国家がその権利を主張する方法は、訴え出る国際的な法廷のごときものはないから決して訴訟によってではなく、ただ戦争によるほかにはなく、しかも戦争及びその幸運なる結果、すなわち戦勝によっては権利は正しく決定せられないのであり、なるほど平和条約によっていちおう今回の戦争は終結せられはしたが、戦争状態(常に新たな戦争の口実を発見しようとしている状態)は終結せられたのではない、(しかもこのような戦争状態においては各国が自国自身の事柄に関しては裁判官であるから、この状態は一概に不正なりと宣告はせられない)、しかしそれにもかかわらず国家に対しては国際法に従って、無法状態にある人間個人に対して自然法に従って「このような状態から脱出すべし」と命ずることが妥当する、まさにこのことが妥当しえないのであり、(なぜなら諸国家はいずれも国家として既に国内的に法的体制を具えており、したがって他国がその国の法概念に従ってより拡大された法律的体制のもとに入れようと強制しても、他国のこの強制に応ずる必要のないほどに成長しているからである)、しかしながら、それにもかかわらず理性は最高の道徳的立法権玉座から訴訟手続きとしての戦争を絶対的に弾劾し、これに対して平和状態を直接的な義務となしているが、この平和状態はやはり諸民族相互間の契約なしには建設せられえず、また保証せられえないのである、――以上のごとくであるから、どうしても平和連盟(foedus pacificum)と名づけられうる特種の連盟がなくてはならないのであり、この連盟は平和条約(pactum pacis 平和契約)とは区別せられるであろうが、この区別は後者が単に一つの戦争を終結しようとするのに対して前者がすべての戦争を終結しようと試みる点にある。この連盟は国家の何らかの権力の獲得をではなくして、単に或る国家それ自体と同時にそれと連盟している他の諸国家との自由の維持と保証のみを目ざすものであり、しかもこれらの国家はそのことのために(自然状態における人間のように)公的法律及びこれのもとでの強制に隷属するを要しないのである。――連盟のこの理念は次第にすべての国家の上に拡がるべきであり、かくして永遠平和にまで導いて行くが、この理念の実現性(客観的実在性)はこれによって立証せられる。けだし、もし幸運にも、或る強力にしてかつ啓蒙せられたる民族が共和国(その本性上永遠平和に傾かざるをえない共和国)を形成しうるように定められるならば、この共和国は他の諸国家に対して連盟的合一の中心点を提供し、かくしてこれらの国家と連結し、国際法の理念に即応して諸国家の自由状態を保証し、この種の結合のより多くのものを介して次第々々にますます大きく拡がって行くことになるからである。
 或る民族が次のように語る、すなわち「われわれの間には戦争はあるべきではない、けだしわれわれはわれわれのために一つの国家を形成しようと欲する、すなわちわれわれはわれわれの紛争を平和的に調停する最高の、立法権統治権裁判権をわれわれ自身に対して設置しようと欲するからである」と語るならば、――これは理解されうることである。―― ――しかしもしそのようにして形成された国家が次のように語るならば、すなわち「わが国と他の諸国家との間には戦争はあるべきではない、ただしわが国は、わが国に対してはわが国の権利を保証しかつまたわが国がそれに対してはその権利を保証するところの最高の立法権を認めはしないけれども」と語るならば、そこには市民的な社会連盟の代用物、すなわち自由なる連盟(Foderalism)がない以上、私はわが国の権利に対する信頼をいずこに基づけばよいのか、ということが全然理解せられないのであり、したがって理性は、およそ国際法の概念になおも何か意味あるものが残存しているとすれば、自由なる連盟をどうしてもこの概念に結びつけざるをえないのである。
 国際法が戦争への権利(38)と解されるならば国際法の概念には本来的には考えるべき意味は全然ないが(なぜなら、そう解されるならば何が権利であるかを、普遍的に妥当し個々の国家の自由を制限する外的法則によってではなく権力によって支えられた一方的な格率によって規定することが権利となってしまうはずだからである)、さもなければその概念は次のような意味になるであろう、すなわち、そのように解している心情の人々が相互に破壊し合い、こうして遂に永遠平和を、暴力行為の一切の残虐なる仕業をこれを始めた行為者と共に埋葬している広大な墳墓のうちに見出すことになるならば、これらの人々にとって全く正しいことが生ずることになる、と。――相互関係のうちにある諸国家にとって、単に戦争だけを含んでいる無法則的状態から脱出するためには理性によれば次の方法しかない、すなわち諸国家も個々の人間とまったく同様に、その未開な(無法則的)自由を放棄して公的な強制法則に順応し、かくして一つの(むろん常に増大しつつある)、遂には地上のあらゆる民族を包括することになるであろう国際国家(civitas gentium 諸民族の国家)を形成することによってである。しかし諸国家はこのことを国際法に関する彼らの観念に従って決して欲せず、したがって一般的命題としては(in thesi)正しいものを個々の場合に関しては(in hypothesi)否認するから(39)、一つの世界共和国という積極的理念の代りには(すべてが失われるべきでないとすれば)戦争を避けるための持続的であり絶えず拡大する連盟という消極的代用物のみが法を嫌悪する好戦的な傾向性の流れを、この傾向性の勃発する危険は絶えず伴っているけれども、よく阻止しうるのである(そのなかに神を無みする狂乱は――血まみれの口して物凄く叫ぶであろう、ヴィルギリウスFuror impius intus - fremit horridus ore cruento. Virgil*)
* 戦争の終った後で、平和の締結に際して、感謝の祭りの後につづいて懺悔の日を指定して、天に国家の名において大なる罪過に対する赦免を請い求めることはおそらく一民族にとってふさわしからぬことではなかろうが、その大なる罪過とは人類がなお依然として責めを負い続けているものであり、他の諸民族との関係において法的体制に服従しようとはせず、むしろ自己の独立性を誇りとして逆に戦争という野蛮な手段を使用するという罪過のことである、(けれども戦争によっては、その民族によって求められているもの、すなわちそれぞれの国家の権利は決定せられないのである)。――戦争がまだ続いている間に個々の勝ち得られた勝利に対する感謝の祭り、あるいは(極めてイスラエル的な表現を使えば)万軍の主に対する讃美の歌、これらは人間の父なる道徳的理念に対していずれも劣らぬ強烈な対照(コントラスト)をなしている、なぜなら、それらの祭りや讃美の歌は諸民族がそれぞれ相互的な権利を求め合っている方法(これは十分に悲しむべき方法)に関して無関心である以外にさらに実に多くの人々を、あるいはこれらの人々の幸運を破滅してしまったことについて喜びをさえ感じさせようとしているからである。

永遠平和のための第三確定箇条
 「世界市民法は普遍的な友好の諸条件に制限せられるべきである」。

 ここでも上記の諸箇条におけると同じく、述べられることは博愛についてではなく権利についてであり、そしてここで友好(客として遇せられること)とは、或る外国人が他国人の土地に到着したために他国人によって敵として取り扱われない、というその外国人の権利を意味する。

 もしこのような関係と、われわれの大陸の開化した、特に商業を営む諸国家の非友好的な行状とが比較されるならば、これらの国々が他の土地と他の諸民族を訪問する場合に(彼らにとってこの訪問は征服と同一とみなされるが)彼らの実証する不正は恐怖を感じさせるほどにまで及ぶ。

 だからし支那*と日本(ヤパン)(ニポン)とがこれらの賓客との試みをしてしまった後で、いずれも賢明にも、支那は来航を許すには許すが入国を許さず、日本は来航することをさえ唯一のヨーロッパ民族すなわちオランダ人にのみ許し、しかもその際にもオランダ人を囚人のごとくに取り扱って自国の原住民との共同関係(ゲマインシャフト)から除外したのである。

* この大国を、これがそれ自身を呼ぶところの名で記そうとするためには(すなわちヒナ China であって、シナ Sina、あるいはこれに類似した発音でなしに)、ゲオルギィウスの「チベットのアルファベット」、六五一―六五四頁、特に註B以下を参照せられたし。――もともとこの国はペテルスブルグのフィッシャー教授の意見によれば、それ自身を呼ぶ特定の名を有していたのではなく、最も普通の名は今でもキン Kin すなわち黄金という語による名であり、(黄金をチベット人はセル Ser という語で表現している、)だからしてその皇帝は黄金の王(世界における最も壮麗なる国土の王)と呼ばれ、なるほどこの語はこの国自身のうちではヒン Chin というように発音せられるが、イタリアの伝道者たちによって(その喉音字を正しく発音できなかったために)キン Kin というように発音せられたのであろう。

 今や地球上の諸民族の間にひとたび普及したこの(より狭い或いはより広い)共同関係(ゲマインシャフト)は地球上の一つの場所における法の毀損もすべての場所において感ぜられるほどにまで広まるに到ったから、世界市民法の理念は法に関する空想的かつ誇張的な表象様式では全くなく、公共的な人権一般に対して、したがって永遠平和に対しても、国家法並びに国際法の不文法典の不可欠なる補足であり、この理念のこのような条件のもとでのみわれわれは永遠平和に連続的に接近しつつあることを誇りとして宜しいのである(55)。

第一追加条項(56)
 永遠平和の保証について

 この保証(ガランティー)を行なうものは、まさに偉大なる芸術家自然(物を巧妙に造るものたる自然 natura daedala rerum(57))に外ならず、この自然の機械的経過のうちには、人間たちの不和を通して彼らの意志に反しても次には融和を出現させようとする合目的性が明瞭に現われ出ており、しかるがゆえに、これはまるでわれわれにはその作用法則の未知なる原因による強制としては運命と呼ばれるが、しかし世界経過における自然のその合目的性を考慮すれば、人類の客観的な究極目的を目ざし、この世界経過を予定するより高次の原因の深いところにある叡智としては摂理*と呼ばれるものであり、われわれはなるほどこれをもともと自然のこのような芸術的配備において認識するのでもなく、あるいは単にそれに基づいて推論するのでもなく、そうではなくして人間の芸術的行為から類推してそれの可能性について概念を得るためには、それを(事物の形式を目的一般に関連させるあらゆる場合と同様に)ただ附加的に考えうるのみであり、またそうでしかありえないが、しかしそれが理性のわれわれに直接的に指図する目的(すなわち道徳的目的)にいかに関係しいかに合致するかを表象することは一つの理念であり、この理念はなるほど理論的意図においては超絶的であるが実践的意図においては(例えば永遠平和の義務概念に関して、自然のかの機構(メカニズム)をそれに利用するためには)定説的であり、その実在性に関しては十分に基礎づけられている。

* 人間も(感性的存在者として)共にそれに属している自然の機構(メカニズム)のうちには、自然の形式を予め規定している世界創始者の目的をその下に置くことによってしか我々の全く把握しえないような形式がすでに自然の現存の根柢にあることが示されており、われわれはこの世界創始者の予めの規定を(神的)摂理一般と呼び、これが世界の発端に置かれている限り、創設する摂理と呼ぶが(創始者としての摂理 providentia conditrix、彼が命ずるや、常に彼らは従う、semel iussit, semper parent. アウグスティヌス(59))、しかし自然の経過する只中にあってこの経過を合目的性の普遍的諸法則に従って維持するときには、支配する摂理(providentia gubernatrix)と呼び、さらに、人間によって予見せられず、ただ結果からして推測せられる特殊な諸目的に対しては指導する摂理(providentia directrix)と呼び、最後には、実に個々の出来事をそれぞれ神の目的と見なす場合にはもはや摂理とは呼ばずして天命 Fugung(異常なる指図 directio extraordinaria)と呼ぶが、しかし天命そのものを認識しようと欲することは、(たとえ個々の出来事までが奇蹟と呼ばれないとしても、天命は事実としては奇蹟を指示しているから)人間の愚かしい不遜である、なぜなら個々の出来事から作用原因の特殊的原理(この出来事が目的そのものであり、単に他のわれわれに全然知られざる目的から生じた自然機構的な副産物ではないこと)を推論することは、たとえこのことについての言葉がいかに敬虔にして謙虚に語られようとも、不合理であり、自負に満ちている(60)。

 さて、この保証をより詳細に規定するに先立って、次には自然がその大舞台で行為する人格のために設けておいたところの、自然による平和の保証を遂には必然的なものとするところの状態を探索することが必要であろう、――その後で初めて自然がいかにこの保証をなすかの方法を探索することにしよう。
 自然の暫定的設備は次の三点に存する、自然は、(1)人間のために地球上のあらゆる地帯において、そこで生活しうるように配慮した、――(2)人間を戦争によってあらゆる地方へ、極めて不毛の地帯へさえ、そこに居住させるために駆りたてた、(3)――同じく戦争によって人間を多かれ少なかれ法律的な関係に入るように強制してきた。

ところで人間が地上での植民をなしている時期に馴らして家畜とすることを学んだすべての動物のうちで最初の戦争道具となったものは馬であり(65)、(けだし象はやや後の時代、すなわちすでに創設されている国家の奢侈の時代に所属するからであり、)これと同様に、現在ではわれわれにその根源的性質がもはや識られなくなっている或る種の草、穀物と呼ばれる草を栽培する技術も、同じく移植と接木とによって種々の果樹を多様化し改良することも(おそらくヨーロッパでは野生のりんごと野生のなしとのただ二種類をそうすることがなされたであろうが、)確実なる土地所有権が行なわれていたところの、すでに創設されている国家の状態においてのみ成立しえたことであり、――これに到るまでには人間たちはそれ以前に無法的自由においてすでに猟人*生活と漁人生活と牧人生活を経て農耕生活にまでつき進んで来たのであり、今や塩と鉄が発見されたが、これはおそらく種々なる民族の通商において広くかつ遠く求められた最初の品物であり、この通商によって彼らは初めて相互の平和な関係に入り、さらには遠隔地の人々とも理解し合い、共同関係をもち、相互の間の平和な関係に入るようになったのである。

* あらゆる生活様式のうちで猟人生活が疑いもなく開化した体制に最も反しているが、なぜなら、この生活においてはそれぞれの家族は食料と衣類とを獲得するために広い空間を必要とするので、孤立して生きてゆかなくてはならず、家族と家族とは互いにやがて疎遠となり、したがって広大な森の中に分散してしまい、やがてさらには敵対的ともなるからである。

 ところで自然はそのように人間が地球上のいたるところで生活しうることを配慮しておきながら、同時にまた、人間が彼の傾向性に反してさえも、いたるところで生活すべきであることを専制的に欲したが、このことは、このすべきである(Sollen〔当為〕)が人間を道徳法則を媒介にしてそうするように拘束する義務概念を同時に前提している、という意味ではなく、――そうではなくして自然は自然みずからの当の目的に到達するために、戦争を選んだ、ということである。

* これに対して人は次のように問いうるであろう、すなわち、もしも自然がこれらの氷海岸をいつまでも無人の地にしておくべきでないと意志したとするなら、もし自然が将来においてこれらの海岸にもはや流木を(これは予期されることであるが)運んでこなくなったならば、この地の住人はどうなるであろうか?と。

私はこれに対して次のように答える、オビ河、イエニセイ河、レナ河、その他の河の住民は、もしかのもの(自然)が彼らとの間で平和に暮すことを予め強制してくれてさえいるならば、商業的取引きによって木材を彼らのところに運び、その代りに、氷海岸沿いの海が極めて豊かに具えている動物界からの産物を購入することになるであろう、と。

 そこで今や問題は、永遠平和に対する意図の本質的なものに関する問いである。

 1. たとえ或る民族が公法の強制のもとに入るように内部の不和によって強要せられないとしても、戦争が外部からそうするように強いるであろうが、なぜなら先に述べた自然の配備に従えばどの民族も自分たちを圧迫する他の民族を隣人として見出すことになり、これに対し威力として武装して隣人に対抗するためにはみずからを内部的に一つの国家にまで形成しなくてはならないからである。ところで共和的体制は人間の権利に完全に適合している体制であるが、しかしまた建設するのに最も困難な体制であり、なおそれ以上に維持するのに最も困難な体制であり、したがって多くの人々は、種々の利己的傾向性を具えている人間がそんなに崇高な形式を受け入れうることはできないから、それは天使の国でなくてはならない、と主張する(71)ほどである。

 2. 国際法の理念は多くの相互に独立した隣接国家の分離を前提しているが、かかる状態はそれ自体ですでに戦争の状態であるけれども、(もし諸国家の連盟的合一が敵対行為の勃発を予防しないならな、そうであるけれども、)この状態でさえも理性の理念によれば、他国を制圧して世界帝国にまで進行する一つの強国によって諸国家の融合せられることよりもましなことであるのであり、なぜなら諸法則〔法律〕は統治の範囲の拡大するにつれてますますその威力を失い、こうして魂のない専制政治は、善の萌芽を根絶してしまったあげくの果てには、無政府状態に陥ってしまうからである。

* 種々なる宗教の相違とは、奇妙なる表現だ!

 3. 一方において自然は賢明にも、それぞれの国家の意志が国際法の根拠を挙げることまでしてできれば策略あるいは暴力によって自国のもとに諸民族を合一したいと思っているのに、諸民族を分離すると同時に、他方においては自然はまた、世界市民法の概念をもってしては暴力行為と戦争に対して自国を守ることのできなかったであろう諸民族を交互的な利己によって合一しているのである。

すなわち、国家権力の下に置かれているすべての力(手段)のうちで金力はおそらく最も信頼しうるものであるだろうから、諸国家は(むろん必ずしも道徳性の動機によってではないけれども)それによって、高貴な平和を促進せざるをえないように強いられ、そしてたとえ世界のどこにおいてであれ戦争の勃発する恐れのある場合には、あたかもそのために永続的な同盟を結んでいるかのように、仲裁によって戦争を回避するように強いられるのである、けだし戦争をするための大なる団結は事柄の本性に従えばただ極めて稀にしか生じえず、それの成功することはなおさらに稀であるからである。―― ――このようにして自然は人間の傾向性の機構そのものを介して永遠平和を保証しているのであり、この保証の確実性はむろん、永遠平和の将来を(理論的に)予言するには十分なものではないけれども、しかし実践的意図においては十分であり、この(単に夢想的ではない)目的に向って努力することを義務たらしめるのである。

第二追加条項
 永遠平和のための秘密条項

 公法の処理における秘密条項なるものは客観的には、すなわちその内容に従って考察されるならば、一つの矛盾であるが、しかし主観的には、それを命ずる人格の特質に従って判定されるならば、十分に秘密がありうるのであり、この秘密は、その人格が自己をその条項の創始者として公けに布告することを自己の尊厳を疑わしいものとすると思う場合に、このことに関して生じうるのである。
 この種の唯一の条項は次の命題のうちに含まれている。すなわち、公的なる平和の可能であることの諸条件に関する哲学者たちの格率は、戦争のための武装している諸国家によって助言として受け容れられるべきである。
 ところで国家の立法的権威にとっては、国家には当然のことながら最大の智慧が附与されていなくてはならぬから、他の諸国家に対して自国の採る態度の諸原則について臣民(哲学者たち)に教えを求めることは屈辱的であるように思われるが、しかしそれにもかかわらず、その考えを求めることは非常に当を得たことである。

 王者たちが哲学する、あるいは哲学者たちが王者となることは期待されるべきことではないが、しかしまた望まれるべきことでもない、なぜなら権力の占有は理性の自由な判断を不可避的に堕落させるからである。しかし王者たちあるいは王者的な(自分たち自身を平等の諸法則に従って支配する)諸民族が哲学者たちの階級を消滅あるいは沈黙せしめず、むしろ公的に発言せしめることは、彼ら両者にとって自分たちの仕事を明らかにするためにも不可欠であり、そして、この階級は本性上煽動および結社の能力がないから、後から語ることのゆえをもってプロパガンダ(宣伝)の嫌疑をかけられることもないのである。

附録

I 永遠平和に関して道徳と政治との間の不一致について

 道徳は、われわれがそれに従って行為すべきところの無制約に命令する法則の総括として、すでにそれ自体において、客観的な意義における実践であり、ひとがこの義務概念に権威を認めた後でなおも、それをなし能うことなしと言わんと欲することは明らかな不合理である。

 政治は「蛇のごとく賢くあれ」と語り、道徳は(それを制限する条件として)「しかも鳩のごとく偽りなしに(79)」と付け加えている。

 そこで次のように言われる、「まず第一に純粋実践理性の国とその国の正義とを得ようと努めよ、しからば汝の目的(永遠平和の恩恵)はおのずから汝に与えられるであろう(87)」。

 いささか誇張しているように響き、警告として流布しているが、真実なる命題、正義は行われしめよ、たとえ世界は亡ぶとも fiat iustitia, pereat mundus.(88) これは正しく意訳すれば「正義よ支配せよ、たとえこの世の悪者たちがことごとくそのために滅び行こうとも」となり、この命題は奸策あるいは暴力によって指示されているすべての邪曲の道を遮断する法原則である、ただし、これは誤解されて、例えば自己自身の権利を最大の厳格さをもって利用しうる許容として解されてはならず、(そのような利用は倫理的義務に衝突するであろう、)権力所有者たちが何人に対してもその人の権利を、他の人々に対する嫌悪あるいは逆に同情からして拒否したり或いは縮小したりしてはならない責務として解されるべきであり、そのことのためには特に、純粋な法諸原理に従って設立された国家の内部体制が必要とせられるが、次にはまたその国家と他の隣接するあるいは遠隔の諸国家との結合という体制がこれらの国家間の紛争の(普遍的国家に類似せる)法律的調停のために必要とせられるのである。

II 公法の超越論的概念による政治と道徳との一致について

 なんらかの法的状態(すなわち、そのもとにおいて人間に法が現実的に付与されうるところの外的条件)の前提のもとにおいてのみ、国際法について語ることができる、なぜなら国際法は公法として、それぞれの国家にその権利を規定する普遍的意志の公示であることをその概念のうち含意しており、この法的状態 status iuridicus はなんらかの契約から生じなくてはならないからであり、この契約は必ずしも(それによって国家が成立するところの契約のように)強制法に基づくを要しないが、種々なる国家の連盟という既に述べた契約のように少なくとも持続的にして・自由なる連合の契約ではありうる。

 けだし法的状態がなければ公法なるものはありえず、ひとが法的状態以外において(自然状態において)どんな法を考えてみても、すべては単に私法であるからだ。さてわれわれが先に見てきたことは、単に戦争を遠ざけることのみを意図としているところの諸国家の連盟的状態が諸国家の自由と合一しうる唯一の法的状態であるということであった。したがって政治と道徳との一致はただ連盟的合一においてのみ可能であり、(この合一はしたがって法原理によってア・プリオリに与えられ、そして必然的であり、)こうしてすべての国家策略はそれの最大に可能なる範囲において連盟的合一を設立することを、その法的基盤として有しており、この目的がなければ、それのすべてのさかしらは無智であり、偽装せる不義である。

  公法の状態を実現することが義務であり、たとえ無限に先に進んだ接近においてのみその状態を実現するに過ぎないとしても、これを実現しうる根拠ある希望が同時に現存するならば、永遠平和は、これまでは誤ってかく名づけられた講和条約締結(これは実は休戦)の後に来るものであるが、決して空虚な理念ではなくして課題であり、これは徐々に解決されて目標に絶えず近づいて行く課題である、(なぜなら同一の進歩が生起するところの時間の幅は絶えずますます短くなることが期待されるからである)。

訳注
38(二三五)
 『人倫の形而上学』第一部「法論」の「国際法」論は、国際法を「戦争への権利」と「平和の権利」に分け、前者を「国家間の自然状態における戦争(敵対行為)への権利」と「戦争中の権利」と「戦争後の権利」とに区別して論じている(VI 343-49)。
39(二三六)
 一三三ページの訳注3参照。
 この行の「世界共和国の理念」は理論的には「プラトンの共和国」の解釈に由来して、各人の「自由」の共存を可能ならしめる諸法則に従う「最大の人間的自由の社会的体制」という理念に発源する(『純粋理性批判』A三一六、B三七二―七三)。すでにフィヒテ(Joh. Gottlieb Fichte)は一七九三年四月にカントにこの理念を自然法の基礎論とすることを告げ、その成果として九六年に『自然法の基礎』を公刊している。


ヒトラーはベルリン・オリンピックを開催しながら
ドイツ人が古代ギリシアの正統な後継者であると信じていたかは分らないが
ドイツ国民にそう思わせる一大イベントだっただろう。

柄谷行人は、東浩紀の言う一般意志は
共同幻想と同じであると批判するのではないか。
また、柄谷は日本国憲法第9条と
カントの「永遠平和論」の関連性を強調している。