柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

ヘーゲル法哲学批判序説・ヘーゲル国法論批判

マルクスは1843年に「ヘーゲル国法論批判」の草稿を書き、
ヘーゲル『法の哲学』第261〜313節を批判した部分が残されているという。
それが『経済学・哲学草稿』のようだ。


"Deutsch-Franzosische Jahrbucher" 『独仏年誌』第一―第二分冊合併号 一八四四年二月

独仏年誌の計画 A・ルーゲ
一八四三年の交換書簡
ルートヴィヒ王頌歌 ハインリヒ・ハイネ
J・ヤーコビ博士に対する大逆罪、不敬罪および不逞
 不遜なる国法非難の罪の審理における大審院の判決
ヘーゲル法哲学批判 カール・マルクス
国民経済学批判大綱 フリートリヒ・エンゲルス
パリからの手紙 M・ヘス
一八三四年六月十二日のヴィーン政府会議の議定書 C・ベルナイス
謀反 ヘルヴェーク
イギリスの状態、トマス・カーライル『過去と現在』
 フリートリヒ・エンゲルス
ユダヤ人問題によせて カール・マルクス
 B・バウアー「ユダヤ人問題」ブラウンシュヴァイク
 一八四三年、B・バウアー「現代のユダヤ人とキリスト
 教徒の自由になりうる能力」(スイスからの二一ボーゲン、
 五六、八一ページ)
新聞評


マルクスユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』(城塚登訳、岩波文庫

ユダヤ人問題によせて

"Zur Kritik der Hegelschen Rechtsphilosphie. Einleitung" ヘーゲル法哲学批判 序説

  ドイツにとって宗教の批判は本質的にはもう果されているのであり、そして宗教の批判はあらゆる批判なのである。
  誤謬の天国的な祭壇とかまどのための祈り〔oratio pro aris et focis〕が論破されたからには、その巻添えをくって誤謬の現世的な存在も危くされている。天国という空想的現実のなかに超人を探し求めて、ただ自分自身の反映だけしか見いださなかった人間は、自分の真の現実性を探求する場合、また探究せざるをえない場合に、ただ自分自身の仮象だけを、ただ非人間だけを見いだそうなどという気にはもはやなれないであろう。

  宗教上の悲惨は、現実的な悲惨の表現でもあるし、現実的な悲惨にたいする抗議でもある。宗教は、抑圧された生きものの嘆息であり、非情な世界の心情であるとともに、精神を失った状態の精神である。それは民衆の阿片である。

  宗教こそは民衆の阿片である。

  ドイツの国家哲学と法哲学は、ヘーゲルによってもっとも首尾一貫した、もっとも豊かな、もっとも徹底したかたちで示されたのであるが、これに対する批判は二面をもっており、近代国家とそれに連関する現実の批判的分析であるとともに、またドイツの政治的および法的意識の従来のあり方全体の決定的否定でもある。

  だがドイツは、政治的解放の中間段階を、近代諸国民と同時によじ登りはしなかった。ドイツは、理論的に乗り越えた段階にさえ、実践的にはまだ到達していない。どのようにしてドイツは、命懸けの飛躍〔salto mortale〕によって自分固有の障壁〔拘束〕を乗り越えるだけでなく、同時に近代的諸国民の障害をも、すなわちドイツが実際には自分の現実的障壁からの解放として感じ獲得しようと努めざるをえない障壁をも、乗り越えることができるだろうか? ラディカルな革命はラディカルな欲求の革命でしかありえないのだが、そのような欲求の諸前提と産出される場とが、〔ドイツには〕まさに欠けているように見える。

 ドイツ中間階級の道徳的自負心でさえ、他のすべての階級の俗物的な中庸の一般的代表者であるという意識にもとづいているにすぎない。

一八四三年の交換書簡


マルクスヘーゲル国法論批判」

重要なことはヘーゲルがどこでも理念を主語とし、〈政治的心情〉というような本来の現実的な主語を述語としていることである。

理念が主体化されている。現実には家族と市民社会が国家の前提であり、まさにそれらが本来活動するものなのであるが、思弁のなかではこれが逆立ちさせられている。

抽象的なものから具体的なものへ、観念的なものから実在的なものへという思弁哲学のこれまでの運動の歩みは、いわば逆立ちした歩みにほかならない。

抽象するとは、自然の外部に自然の本質を、人間の外部に人間の本質を、思考作用の外部に思考の本質を置くことである。ヘーゲル哲学は、その全体系をこうした抽象作用に基づけることによって、人間を自己自身から疎外した。

論理が国家の論証に奉仕するのではなく、国家が論理の論証に奉仕する。

ヘーゲルは国家から出発して人間を主体化された国家たらしめるが、民主制は人間から出発して国家を客体化された人間たらしめる。宗教が人間を創るのではなく、人間が宗教を創るのであったように、体制が国民を創るのではなく、国民が体制を創るのである。民主制と他のすべての国家形態との間柄は、キリスト教と他のすべての宗教との間柄のようなものである。キリスト教は勝義の宗教、宗教の本質であり、神化された人間が一つの特殊な宗教としてあるあり方である。同様に、民主制はあらゆる国家体制の本質であり、社会化された人間が一つの特殊な国家体制としてあるあり方であり、それと他の国家体制との間柄は、類とそれのもろもろの種との間柄のようなものである。ただしかし、民主制においては類がそれ自身、実存するものとして現われる。

君主制が疎外の完璧な表現であるのに対して、共和制は疎外自身の圏内での疎外の否定である。

官僚制の普遍的精神は、それ自身の内部では位階秩序によって、外へ向っては閉鎖的な職業団体という性格をもつことによって、保護されている秘密であり神秘である。それゆえ公開的な国家精神も国家心情も、官僚制にとっては、その神秘に対する裏切りのように思われる。したがって権威がその知識の原理であり、権威の神格化がその心情なのである。しかし、彼ら自身の内部では、精神主義は極端な物質主義、受動的な服従の物質主義、権威信仰の物質主義、固定した形式的行為と固定した原則や直観や伝統のメカニズムの物質主義となっている。個々の官吏についていえば、国家目的は彼の私的目的、より高い地位への狂奔、立身出世に転化している。


ヘーゲル「法の哲学 要綱(自然法と国家学 要綱)」(藤野渉・赤澤正敏訳、中央公論社

序文
緒論(§一〜三二)
 区分(§三三)
第一部 抽象的な権利ないし法(§三四〜一〇四)
 第一章 自分のものとしての所有(§四一〜七一)
  A 占有取得(§五四〜五八)
  B 物件の使用(§五九〜六四)
  C 自分のものの外化、ないしは所有の放棄(§六五〜七〇)
  所有から契約への移行(§七一)
 第二章 契約(§七二〜八一)
 第三章 不法(§八二〜一〇四)
  A 無邪気な不法(§八四〜八六)
  B 詐欺(§八七〜八九)
  C 強制と犯罪(§九〇〜一〇三)
  権利ないし法から道徳への移行(§一〇四)
第二部 道徳(§一〇五〜一四一)
 第一章 企図と責任(§一一五〜一一八)
 第二章 意図と福祉(§一一九〜一二八)
 第三章 善と良心(§一二九〜一四〇)
  道徳から倫理への移行(§一四一)
第三部 倫理(§一四二〜三六〇)
 第一章 家族(§一五八〜一八一)
  A 婚姻(§一六一〜一六九)
  B 家族の資産(§一七〇〜一七二)
  C 子供の教育と家族の解体(§一七三〜一八〇)
  家族から市民社会への移行(§一八一)
 第二章 市民社会(§一八二〜二五六)
  A 欲求の体系(§一八九〜二〇八)
   a 欲求の仕方と満足の仕方(§一九〇〜一九五)
   b 労働の仕方(§一九六〜一九八)
   c 資産(§一九九〜二〇八)
  B 司法活動(§二〇九〜二二九)
   a 法律としての法(§二二一〜二一四)
   b 法律の現存在(§二一五〜二一八)
   c 裁判(§二一九〜二二九)
  C 福祉行政と職業団体(§二三〇〜二五六)
   a 福祉行政(§二三一〜二四九)
   b 職業団体(§二五〇〜二五六)
 第三章 国家(§二五七〜三六〇)
  A 国内公法(§二六〇〜三二九)
     §二六一
 私的権利と私的福祉、家族社会と市民社会、こうした諸圏に対して、国家は一面では、外面的必然性であり、それらの上に立つより高い威力であって、それらの法律も利益もこの威力の本性に従属し、依存している。
     §二六二
     §二六三
     §二六四
     §二六五
     §二六六
     §二六七
     §二六八
     §二六九
     §二七〇
     §二七一
   I それ自身としての国内体制(§二七二〜三二〇)
     §二七二
     §二七三
     §二七四
    a 君主権(§二七五〜二八六)
     §二七五
     §二七六
     §二七七
     §二七八
     §二七八
     §二七九
     §二八〇
     §二八一
     §二八二
     §二八三
     §二八四
     §二八五
     §二八六
    b 統治権(§二八七〜二九七)
     §二八七
     §二八八
彼らの配慮し管理するこれらの要件は、一面では、これらの特殊的な諸圏の私的所有と利益であり、この面からすれば、彼らの権威もまた、彼らと同じ身分の者や同じ市民たちの信頼に基づくが、しかし他面、これらの仲間集団は、国家のより高い利益に従属していなければならない。
     §二八九
     §二九〇
 ところがフランスには、職業団体と自治団体(コミューン)が、すなわちそこにおいて特殊的利益と普遍的利益とが一致するところの仲間集団が欠けている。なるほど中世ではこうした仲間集団は、あまりに大きな独立性を獲得して、国家のなかの国家をなし、まるで自分たちだけで独立に存在している団体であるようなふるまい方をかたくなに固持したのであった。
     §二九一
     §二九二
     §二九三
     §二九四
     §二九五
     §二九六
     §二九七
 政府構成員と官吏は、国民大衆の教養ある知性と合法的な意識とが所属する中間身分の主要部分をなすものである。

追加〔中間身分の意義〕官吏の属する中間身分のうちにこそ、国家の意識と最も優れた教養がある

この中間身分が形成されるということが国家の主要関心事であるが、しかしこれは、われわれが見たような組織においてのみ可能なのである。すなわち一方では、相対的に独立している特殊的な仲間集団に権限を賦与することによって、また他方では、こうした有権団体にぶつかってその恣意が挫かれるような官僚界をつくることによって可能なのである。普遍的な法に即した行動の習慣は、それ自身としては独立している仲間集団が(官僚界に対して)対立をなすことの一つの帰結なのである。
    c 立法権(§二九八〜三二〇)
     §二九八
     §二九九
     §三〇〇
     §三〇一
     §三〇二
     §三〇三
なかでも国家は本質的に、それぞれの分肢がそれ自身だけで仲間集団であるような、そういうもろもろの分肢から成る一つの組織体である。

 例の仲間集団というかたちをとってすでに存在している共同体を、それが政治の場へ、すなわち最高の具体的普遍性の立場へ入ってゆく場合に、もとどおり多数の諸個人に解体される考え方は、まさにそうすることによって、市民生活と政治生活とを別々に切り離したままにしておき、後者をいわば宙に浮かすわけである。
     §三〇四
     §三〇五
     §三〇六
     §三〇七
     §三〇八
     §三〇九
     §三一〇
     §三一一
     §三一二
     §三一三
   II 対外主権(§三二一〜三二九)
  B 国際公法(§三三〇〜三四〇)
  C 世界史(§三四一〜三六〇)