柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

クルドについて

日本=トルコ
朝鮮=クルド

という対比が出来るようです。

クルド人 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%89%E4%BA%BA
クルドの心を歌いたい http://www.nhk.or.jp/asiansmile/onair/20100313.html


1、リアルな友達(現実の)
2、この絵はリアルだ(現実的だ)

のようにリアルの使い分けは明確なのかもしれない。


1’、不合格だったという現実(リアリティ)
2’、この映画にはリアリティがある(現実性)

現実とリアリティの使い分けもあるようだ。
外来語は、真面目な話題に使わず
遊びの話題に使う。


エンゲルスカール・マルクス『フランスにおける階級闘争、一八四八年から一八五〇年まで』(一八九五年版)への〕
「序文(三三二)」『マルクスエンゲルス全集 第7巻』(中原稔生訳、大月書店)

すなわち、一八四七年の世界的商業恐慌が、二月と三月の革命のほんとうの生みの親であったこと、そして一八四八年の半ばからだんだんに回復し、一八四九年と一八五〇年に全盛に達した産業の好況が、あらたに強化したヨーロッパの反動を活気づけた力であったということである。それは決定的なことであった。最初の三論文(『新ライン新聞、政治経済評論』一月、二月、三月号、ハンブルク、一八五〇年*)には、まもなく革命のエネルギーがあらたに高揚するだろうという期待がまだ全文に見られるが、最後の一八五〇年秋発行の合併号にマルクスと私が執筆した歴史的概観(五―一〇月)のなかでは、すでにきっぱりとこうした幻想を捨てている。「新しい革命は新しい恐慌につづいてのみ起こりうる。しかし革命はまた、恐慌が確実であるように確実である**」と。
* 本書、九―九四ページを参照。
** 本書、四四〇ページを参照。

 しかし、歴史はわれわれの考えをもまた誤りとし、当時のわれわれの見解が一つの幻想であったことを暴露した。歴史はそれ以上のことをした。

 歴史は、われわれおよびわれわれを同じように考えたすべての人々の考えを誤りとした。歴史は、大陸における経済発達の水準が、当時まだとうてい資本主義的生産を廃止しうるほどに成熟していなかったことを明白にした。歴史は、これを一八四八年いらい全大陸をまきこんだ経済革命によって証明した。この経済革命によって、フランス、オーストリアハンガリーポーランド、また最近ではロシアにも、ようやくほんとうの大工業が根をおろし、そしてドイツはまさに第一級の工業国になったのである。――以上のことはすべて資本主義的な基礎のうえで、したがって一八四八年にはまだ大いに伸びる力をもっていた基礎のうえで、起こった。

あの旧式な反乱、つまり一八四八年まではどこでも最後の勝敗を決めたバリケードによる市街戦は、はなはだしく時代おくれとなっていた。

 だから市街戦の古典時代においてさえ、バリケードは、その物質的効果よりも、精神的効果のほうが大きかった。バリケードは軍隊の堅固さをゆすぶる手段であった。これが成功するまでバリケードをもちこたえれば、勝利が得られたが、そうでない場合は敗北した。〈われわれが将来起こるかもしれない市街戦の成功の機会について研究する場合にも、これが着眼すべき主要点である*。〉
  * 〈 〉内は検閲を考慮して削除された部分。以下同じ。

 だが、そのとき以来もっと非常に多くの変化が起こったが、それらはみな軍隊に有利だった。大都市はいちじるしく大きくなったが、軍隊はさらにそれ以上に大きくなった。パリとベルリンは一八四八年このかた四倍以上に拡大している。これらの守備隊は鉄道によって二四時間内にふやすことができ、四八時間内に巨大な軍隊に膨張させることができる。この途方もなく数を増した軍隊の武装が、比較にならぬほど強大になっている。

 〈では、将来においては、市街戦はもうなんの役割も演じないというのか? 断じてそうではない。それはただ、一八四八年以来いろいろな条件が市民の戦士にとってずっと不利になり、軍隊にとってずっと有利になった、というだけの意味である。だから、将来の市街戦は、こうした不利な状況を別の諸契機で埋め合わせた場合にのみ勝つことができる。だから、市街戦は、大革命のはじめに起こることは比較的にまれで、むしろ、そのような革命のその後の経過中に起こることのほうが多く、以前よりももっと強大な兵力をもって企てられなければならないだろう。だが、そのような大きな兵力があれば、あのフランス大革命の全体をつうじてそうであったように、また一八七〇年九月四日や一〇月三一日(三三八)にパリでなされたように、きっと受動的なバリケード戦術よりも公然たる攻撃を選ぶであろう。〉

ロンドン、一八九五年三月六日

                    F・エンゲルス


柄谷行人はどこかで言っていた
(というか、2005年の浅田彰氏との朝日カルチャーセンターで)。
1968年の革命は1848年の120年後の反復であると。
永続革命のスローガンも120年後に反復されたという事らしい。

1848年革命 http://ja.wikipedia.org/wiki/1848%E5%B9%B4%E9%9D%A9%E5%91%BD
1968年 五月革命 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E6%9C%88%E9%9D%A9%E5%91%BD


プルードンは1846年5月17日の書簡で
以下「行動の瞬間において」について回答している。

マルクスエンゲルス全集 第27巻』(良知力訳、大月書店)

マルクスからピエール‐ジョゼフ・プルドン(在パリ)へ

 親愛なプルドン!
 パリを去ってから私は何度もあなたに手紙を書こうとしました。ところが、自分の意志ではどうにもならない事情のため、これまでそれがさまたげられてきました。私のいうことを信じていただきたいと思いますが、過度の忙しさ、引越しと結びついたごたごた等がご無沙汰の唯一の理由なのです。
 さっそく本題にはいります。私は二人の友人フリードリヒ・エンゲルスとフィリップ・ジゴ(二人ともブリュッセルにいます)といっしょに、ドイツの共産主義者社会主義者との継続的な通信を組織しました。この通信は科学的諸問題を論究するとともに、さらに大衆向けの書物を批判的に概観することや、またこのような手段を使ってドイツで行ないうる社会主義プロパガンダを仕事とすることになるでしょう(三四)。しかし、われわれの通信の主目的は、ドイツの社会主義者とフランスおよびイギリスの社会主義者との連絡を確立し、ドイツで今後展開される社会主義運動の現状を外国人に知ってもらうとともに、ドイツに住むドイツ人にフランスやイギリスの社会主義の進歩について知らせることにあります。このようなやり方で意見の違いが明らかになりうるでしょうし、思想の交換と公正な批判ができるようになるでしょう。これは、社会運動が国家的制約をまぬがれるために、その分筆上の表現形式のなか講じなければならない措置です。しかも、自国の事態についてと同様に外国の事態についてよく知っておくことは、行動の瞬間において誰にとってもきわめて役に立つことはたしかです。
 われわれの通信はドイツにいる共産主義者のほかにパリおよびロンドンに住むドイツ人社会主義者をもふくむでしょう。イギリスとの連絡はすでについています。フランスに関しては、あなた以上にすぐれた通信員をそこでみいだすことはできないとわれわれ全員が考えています(三六〇)。ご存じのように、イギリス人とドイツ人はこれまであなたの同国人以上にあなたを評価することができたのです。
 ですから、個々ばらばらの仕事ではもたらし得ないような豊かで多面的な成果を得るためには、規則的な通信を行ない、さまざまな国で社会運動を遂行する手段を確保することだけが大切なのだ、ということはおわかりでしょう。
 あなたがわれわれの提案に同意されるならば、あなたがお受け取りになる手紙の郵税も、またあなたがわれわれに送られる手紙の郵税もここで支払われます。というのは、ドイツでおこなわれた募金が通信費用をまかなうのにあてられているからです。
 お手紙をいただく場合に書いていただく当地のアドレスは、リュ・ド・ボーデンブルーク、八、フィリップ・ジゴ氏あてです。ブリュッセル発の手紙に署名するのも彼です。
 この全通信についてあなたの側で厳重に秘密を守っていただく必要があることはつけ加えるまでもないのですが、ドイツにいるわれわれの友人も危険にさらされないために、くれぐれも慎重に行動しなければなりません。
 すぐにお返事をいただきたいと思います。あなたに忠実なものの誠実な友情を信じていただけますよう。
                 カール・マルクス
 ブリュッセル、一八四六年五月五日

 追伸。なおパリにいるグリューン氏には気をつけてください。この人間は現代諸思想を売り歩こうとしているすべての文士、一種の山師にほかなりません。彼は大げさで尊大なしゃべり方をして自分の無知をかくそうとしていますが、だがそれも駄弁を弄して人の笑い物になることができただけのことです。そればかりか、この人物は危険です。その厚かましさのおかげで知名の著者たちと知りあいになったのを悪用し、それを自分の足がかりにすることによって、彼らにまでドイツの公衆のまえで恥をかかせます。「フランス社会主義者たち」についての彼の本のなかで、こしゃくにも彼は自分のことをプルドンの教師(私講師――ドイツではアカデミーの位)と呼び、ドイツ科学の最も重要な公理を彼に教えこんだと主張し、自分の書物のおかげで笑い物になっています。この寄生虫に気をつけてください。多分あとでもう一度この人物についてお話しするでしょう。

   〔フィリップ・ジゴの追伸〕
 私はこの手紙によって自分にあたえられた機会をよろこんで利用して、あなたのようなすぐれた方と結びつきをもつことが私にとってどんなにうれしいことかを申しあげたいと思います。
              あなたの忠実な
                 フィリップ・ジゴ

   〔エンゲルスの追伸〕
 私に関しては、プルドン氏、あなたが、われわれがいま示した提案に同意されるとともに、好意をもってあなたの寄稿をおことわりにならないだろうという希望をいだくことができるだけです。あなたの著書によって私の心に深い尊敬の念が呼び起こされたことを申しあげます。いつまでも   あなたの忠実な  フリードリヒ・エンゲルス

                   原文はフランス語

(三四)ここで言っているのは、マルクスエンゲルスが一八四六年の初めにブリュッセルで創設した共産主義通信委員会のことで、これにならってドイツやフランスやイギリスやその他の諸国でも社会主義団体がつくられるはずだった。この通信委員会は、マルクスエンゲルスが意図していたところでは、国際プロレタリア党の結成のための地盤を準備するべきもので、その目的は、諸国の社会主義者や進歩的労働者のイデオロギー上および組織上の結合であり、また労働運動におけるプロレタリアートに無縁な諸流派にたいする闘争でもあった。ブリュッセル通信委員会の創設によって、マルクスエンゲルスは、科学的社会主義を労働運動の前衛と融合させるための組織的な、政治的な、イデオロギー的な前提をつくりだしたのである。彼らは、ロンドンやパリやドイツ諸地方における通信委員会の結成と関連して、ヨーロッパ諸国の有力な社会主義者共産主義者をこれらの委員会での協力に引き入れようと努力した。一八四六年三月三〇日のエンゲルスあてのジョージ・ジュリアン・ハーニの手紙や一八四六年六月六日および七月一七日のマルクスあてのカール・シャッパーの手紙から明らかなように、ロンドンに設けられた通信委員会では、チャーティストの左翼の指導者たちもシャッパーの率いるロンドンのドイツ人労働者教育協会の会員(注解五八を見よ)も協力した。マルクスエンゲルスは、エティエンヌ・カベやピエール‐ジョゼフ・プルドンやその他のフランスの社会主義者たちをも協力者として獲得しようと試みた(本巻、四四二/四四三〔原〕ページを見よ)。しかし、この試みは成功しなかった。そのことは一八四六年五月一七日のマルクスあてのプルドンの手紙に示されている(注解四六および三六〇を見よ)。ドイツではヴィルヘルム・ヴォルフがシュレージエンの労働者たちとの連絡を保っていた。キールからはゲオルク・ヴェーバーが、ヴェストファーレンからはヨーゼフ・ヴァイデマイアーが、ブリュッセルに通信した。ライン州ではシュテファン・ナウトやグスタフ・ケットゲンを通じてエルバーフェルトの社会主義者たちと書信が交換された。また、ケルンの共産主義者たち、ローラント・ダニエルスやハインリヒ・ビュルガースやカール・デスターは、マルクスおよびエンゲルスと規則的に通信していた。三三、四四二

(三六〇)ピエール‐ジョゼフ・プルドンは一八四六年五月一七日付けマルクスあての返書において、ブリュッセル共産主義通信委員会の通信員として協力してほしいという提案を断わり、そのさい、自分は革命的闘争手段や共産主義に反対する者だと言明した。(『J‐P・プルドン書簡集』、第二巻、パリ、一八七五年、一九八―二〇二ページを見よ)。四四三


twitSns http://www.twitsns.com/index.cfm?id=sasaki_makoto


関本洋司さんがマルクスプルードン往復書簡を掲載している。
http://blog.livedoor.jp/yojisekimoto/archives/50790313.html


ReTweeter! http://retweeter.unicco.in/user/sasaki_makoto/