柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

資本論

日本語「買う」の語源は「換える」であるらしい。


【買うの語源・由来】
買うの語源は、品物を手に入れたりサービスを受けるために、お金と交換することから、「かふ・かう(交・替・代・換)」と考えられる。

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マルクスエンゲルス全集 第23巻 第1分冊』(岡崎次郎訳、大月書店)

カール・マルクス 資本論 経済学批判

第一巻 第一部 資本の生産過程

第一版序文(一)

 ここにその第一巻を読者におくるこの著作は、一八五九年に刊行された私の著書『経済学批判』の続きとなるものである。

価値理論および貨幣理論の歴史に関する諸節は、今度は、当然のこととして、全部なくなっている。

この著作で私が研究しなければならないのは、資本主義的生産様式であり、これに対応する生産関係と交易関係である。

一八世紀のアメリカの独立戦争がヨーロッパの中間階級のために警鐘を鳴らしたように、一九世紀のアメリカの南北戦争はヨーロッパの労働者階級のために警鐘を鳴らした。

  ロンドン、一八六七年七月二五日
                                         カール・マルクス

第二版後記(六)

 第一章第一節では、それぞれの交換価値が表現される諸等式の分析による価値の導出が、科学的にいっそう厳密になされている。

 ドイツの批評家たちが、ヘーゲル的詭弁だという非難をあげていることは、言うまでもない。

 私の弁証法的方法は、根本的にヘーゲルのものとは違っているだけでなく、それとは正反対なものである。ヘーゲルにとっては、彼が理念という名のもとに一つの独立な主体にさえ転化している思考過程が、現実的なものの創造者なのであって、現実的なものはただその外的現象をなしているだけなのである。私にあっては、これとは反対に、観念的なものは、人間の頭のなかで置きかえられ翻訳された物質的なものにほかならないのである。
 ヘーゲル弁証法の神秘的な面を私は三〇年ほどまえに、それがまだ流行していたときに、批判した。ところが、私が『資本論』の第一巻の仕上げをしていたちょうどそのときに、いまドイツの知識階級のあいだで大きな口をきいている不愉快で不遜で無能な亜流(一一)が、ヘーゲルを、ちょうどレッシングの時代に勇敢なモーゼス・メンデルスゾーンスピノザを取り扱ったように、すなわち「死んだ犬」として、取り扱っていい気になっていたのである。それだからこそ、私は自分があの偉大な思想家の弟子であることを素直に認め、また価値論に関する章のあちこちでは彼に特有な表現様式に媚を呈しさえしたのである。弁証法ヘーゲルの手のなかで受けた神秘化は、彼が弁証法の一般的な諸運動形態をはじめて包括的で意識的な仕方で述べたということを、けっして妨げるものではない。弁証法ヘーゲルにあっては頭で立っている。神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくり返さなければならないのである。

  ロンドン、一八七三年一月二四日
                                         カール・マルクス

フランス語版への序文と後記
                                         ロンドン、一八七二年三月一八日

                                         カール・マルクス

読者へ

  ロンドン、一八七五年四月二八日
                                         カール・マルクス

第三版へ

  ロンドン、一八八三年一一月七日
                                         フリードリヒ・エンゲルス

英語版への序文

このような引用がなされるのは、引用される章句が当時の一般的な社会的生産・交換事情の多かれ少なかれ適切な表現として重要だという場合であって、それをマルクスが承認するとか、あるいはそれが一般的な妥当性をもっているとかいうこととはまったく無関係である。

  一八八六年一一月五日
                                         フリードリヒ・エンゲルス

第四版へ

  ロンドン、一八九〇年六月二五日
                                         F・エンゲルス

第一部 資本の生産過程

第一篇 商品と貨幣

第一章 商品

第一節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)

 資本主義的生産様式が支配的に行なわれている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり一」として現われ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現われる。

われわれが考察しようとする社会形態にあっては、それは同時に素材的な担い手になっている――交換価値の。

 交換価値は、まず第一に、ある一種類の使用価値が他の使用価値と交換される量的関係、すなわち割合六として現われる。

それゆえ、交換価値は偶然的なもの、純粋に相対的なものであるように見え、したがって、商品に内的な、内在的な交換価値(valueur intrinseque)というものは、一つの形容矛盾七〔contradictio in adjecto〕であるように見える。

 ある一つの商品、たとえば一クォーターの小麦は、x量の靴墨とか、y量の絹とか、z量の金とか、要するにいろいろに違った割合の他の諸商品と交換される。だから、小麦は、さまざまな交換価値をもっているのであって、ただ一つの交換価値をもっているのではない。しかし、x量の靴墨もy量の絹もz量の金その他も、みな一クォーターの小麦の交換価値なのだから、x量の靴墨やy量の絹やz量の金などは、互いに置き替えられうる、または互いに等しい大きさの、諸交換価値でなければならない。そこで、第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの同じものを表わしている、ということになる。しかし、第二に、およそ交換価値は、ただ、それとは区別される或る実質の表現様式、「現象形態」でしかありえない、ということになる。

それらの交換関係がどうであろうと、この関係は、つねに、与えられた量の小麦がどれだけかの量の鉄に等値されるという一つの等式で表わすことができる。

だから、それらのうちのどちらも、それが交換価値であるかぎり、この第三のものに還元できるものでなければならないのである。

これと同様に、諸商品の諸交換価値は、それらがあるいはより多くあるいはより少なく表わしている一つの共通なものに還元されるのである。

ところが、他方、諸商品の交換関係を明白に特徴づけているものは、まさに諸商品の使用価値の捨象なのである。この交換関係のなかでは、ある一つの使用価値は、それがただ適当な割合でそこにありさえすれば、ほかのどの使用価値ともちょうど同じだけのものを認められるのである。あるいは、かの老バーボンが言っているように、
  「一方の商品種類は、その交換価値が同じ大きさならば、他方の商品種類と同じである。同じ大きさの交換価値をもつ諸物のあいだには、差異や区別はないのである八。」

 使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、いろいろに違った質であるが、交換価値としては、諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり、したがって一分子の使用価値も含んではいないのである。

 諸商品の交換関係そのもののなかでは、商品の交換価値は、その使用価値にはまったくかかわりのないものとしてわれわれの前に現われた。

だから、商品の交換関係または交換価値のうちに現われる共通物は、商品の価値なのである。研究の進行は、われわれを価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値につれもどすことになるであろう。

   九 第二版への注。,,The value of them (the necessaries of life) when they are exchanged the one for another, is regulated by the quantity of labour recessarily required, and commonly taken in producing them.'' 「諸使用対象の価値は、それらが互いに交換されるとき、それらの生産に必ず必要とされ、普通に充用される労働の量によって、規定されている。」(『金利一般および特に公債利子に関する諸考察』、ロンドン、三六、三七ページ。)一八世紀のこの注目に値する匿名の著書には、刊行年が記されていない。しかし、それがジョージ二世治下、一七三九年か一七四〇年ごろに刊行されていることは、その内容からみて明らかである。

   * 初版ではこれに次の句が続いている。「われわれは今では価値の実体を知った。それは労働である。われわれは価値の大きさの尺度を知った。それは労働時間である。価値の形態、これこそは価値に交換‐価値という印を押すのであるが、この形態を分析するのはまだこれからのことである。しかし、まずその前に、すでに見いだされた諸規定をもう少し詳しく展開しなければならない。」