柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

一八五〇年九月一五日の中央委員会会議

マルクスエンゲルス全集 第8巻』(大月書店)

「一八五〇年九月一五日の中央委員会会議(三六六)」(平木恭三郎訳)

『宣言』の唯物論的見地の代わりに、観念論的な見地が主張されている。現実の諸関係ではなくて意志が革命の眼目だと主張されている。われわれは労働者にこう言っている、「諸君は諸関係を変え、諸君自身が支配能力をもつようになるために、なお一五年、二〇年、五〇年間というもの、内乱をとおらなければならない」と。ところが諸君はこう言っている、「われわれはただちに政権をにぎらなければならない。それができなければ寝てしまってもかまわない」と。民主主義者が「人民」ということばをたんなる空文句としてつかってきたように、いまでは「プロレタリアート」ということばがたんなる空文句としてつかわれている。この空文句**を実行するためには、すべての小ブルジョアをプロレタリアと宣言し、したがって実際には〔de facto〕プロレタリアではなく小ブルジョアを代表しなければならなくなるであろう。真の革命的発展を、革命という空文句とすりかえなければならなくなるであろう。

私はつねにプロレタリアートの一時的な意見には反対してきた。われわれは、党自身にとってしあわせなことにまだまさに権力につくことのできない党に身をささげている。もし権力をにぎるようなことになるなら、プロレタリアートは、直接プロレタリア的ではなく、小ブルジョア的な方策をとることになるだろう。わが党は、四囲の事情が党の見解を実現することを可能にするようになったときにはじめて、権力をにぎることができるのである。ルイ・ブランは、時期尚早に権力をにぎった場合にはどうなるかを示す最良の実例を提供している(三六八)。もっともフランスではプロレタリアは単独で権力をにぎるのではなく、彼らとともに農民と小ブルジョアが権力をにぎるであろう。そしてプロレタリアは自分の方策を実行せざるをえなくなるであろう。パリのコミューヌ(三六九)は、なにかを実行するためには政府にくわわる必要はないことを証明している。

 以上、ロンドン、一八五〇年九月一五日に作成。
 読みあげ、承認をうけ、左記のものが署名した*。
  * 議事録のもう一つの異文には、この文章はのっていない。
       署名 中央委員会議長 K・マルクス
       書記 F・エンゲルス
       ハインリヒ・バウアー
       K・シュラム
       J・G・エッカリウス
       K・プフェンダー

            手稿による


マルクス「ケルン共産党裁判の真相(二八七)」(平木恭三郎訳)

だから一八五〇年九月一五日のロンドンの中央委員会の最後の議事録から、二、三の個所を引用しよう*。
   * 本書、五九七―六〇一ページを参照。

 分離を提案する理由を説明してマルクスはとりわけ文字どおり次のように言っている。「少数派は、批判的な見地の代わりに観念論的な見地をもちだしている。少数派にとっては、革命の推進力となっているのは、現実の諸関係ではなくてたんなる意志である。われわれは労働者にこう言う、『諸君は諸関係を変えるためだけでなく、諸君自身を変革し、政治的支配の能力をもつようになるために、なお一五年、二〇年、五〇年間というもの、内乱と民族的闘争とをとおらなければならない』と。ところが諸君はこう言う、『われわれはただちに政権をにぎらなければならない。それができなければ寝てしまってもかまわない』と。われわれはとくにドイツの労働者にドイツ・プロレタリアートのおくれた状態を指摘してきたが、諸君はドイツの手工業者の民族的感情や身分的偏見にぶざまきわまるやり方でへつらっている。もちろん、これはわれわれよりも俗うけのするやり方だ。民主主義者が人民ということばを祭りあげるが、諸君はプロレタリアートということばを祭りあげている。民主主義者と同じく、諸君は革命的発展を『革命』という空文句とすりかえている」うんぬん、と。


(二八七) 著作『ケルン共産党裁判の真相』は、闘争パンフレットであり、そのなかでマルクスプロイセン警察国家共産主義運動にたいして適用した卑劣な方法を非難した。マルクスは一八五二年一〇月末、ケルンで共産主義者同盟にたいする裁判が終結する以前にこの著述を始めた。極度に困難な諸条件にもかかわらず――マルクスとその家族は非常に貧乏な生活状態にあった――、マルクスは一二月はじめにこれを書き終えることができた。一二月六日、原稿は出版者シャーべリック二世あてにスイスに送られた。翌日、もう一揃いの原稿がアメリカで出版するため、アードルフ・クルースあてに送られた。バーゼルでパンフレットが一八五三年一月に匿名で印刷されたが、しかしほとんど全部数(二〇〇〇部)が、三月にバーデンとの国境ヴァイル村で警察に没収された。アメリカでは、著作はまず最初は一章ずつボストンの民主主義的『ノイ‐エングランド‐ツァイトゥング』に発表され、一八五三年四月末、この新聞の出版でパンフレットとして匿名で出版された。ボストン版パンフレットのドイツでの普及も失敗した。
 一八七四年に『フォルクスシュタート』(注解三五三を参照)が省略せずに一三回の連載で復刻を発表した(一八七四年一〇月二八日付第一二六号から一八七四年一二月一八日付第一四七号まで)。はじめてマルクスの名が著者としてあげられた。あとがき(本書、五七四―五七六ページ参照)は、一八七五年一月二七日付の第一〇号に掲載された。最後に出版者は一八七五年にもう一度、単行本として復刻を公刊したが、同じく著者の名まえをかかげ、前述のマルクスのあとがき、ならびにマルクスが一八六〇年に書いた『ケルンの共産党裁判』(本書、五六五―五七三ページを参照)という題名でパンフレット『フォークト君』につけた付録第四が増補された。
 一八八五年にエンゲルスの編集で第三版が出版され、巻頭にエンゲルスの論文『共産主義者同盟の歴史によせて』(本書、五七七―五九三ページ)が付された。この版にはさらにエンゲルスが一八五〇年三月と六月の中央委員会の同盟員への呼びかけを増補している(本全集、第七巻、二四四―二五四ページおよび三〇六―三一二ページを参照)。四〇五

(三六六) 一八五〇年九月一五日の共産主義者同盟中央委員会の議事録のうち、いままで知られていたのは、マルクスが彼の著作『ケルン共産党裁判の真相』(本書、四〇五―四七〇ページを参照)に引用した抜粋だけだった。さらに知られていたのは、この会議で起草された決議で、これは一八五〇年一二月一日のケルン中央委員会の共産主義者同盟員への呼びかけにおさめられている(本全集、第七巻、五六一―五六五ページ)。議事録の完全な原文は、二通の筆写を基礎にして、はじめて雑誌『インターナショナル・レヴュー・オヴ・ソーシャル・ヒストリー』第一巻――一九五六年――第二冊、二三四―二五二ページに発表された。
 モスクワのソ連邦共産党中央委員会付属マルクスレーニン主義研究所が、アムステルダムの社会史国際研究所から彼らに提供された写真複写を調べたところ、二つの文書は同盟中央委員会会議議事録の筆写にすぎないことがわかった。これらの筆写のひとつは、ヘルマン・ヴィルヘルム・ハウプトが書いたものであるが、ハウプトは、起草された決議について報告するため、共産主義者同盟の分裂後、中央委員会からケルンへ派遣されたのである。第二の筆写の筆者は、いままでのところ、確定とすることができなかった。
 本書では、議事録の原文は、ハウプトの書いた筆写によって発表する。五九七