柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日

マルクスエンゲルス全集 第8巻』(大月書店)

マルクス「ルイ・ボナパルトブリュメール一八日(五八)」(村田陽一訳)

 ヘーゲルはどこかで、すべて世界史上の大事件と大人物はいわば二度現われる、と言っている(五九)。ただ彼は、一度は悲劇として、二度目は茶番として、とつけくわえるのを忘れた。

これまでの革命は、自分自身の内容について自分を欺くために、世界史を回想する必要があった。

しかし、プロレタリアートは、敗れても、すくなくとも世界史的な大闘争をやったという名誉をになっている。

フランスのような国、執行権力が五〇万人以上の人間からなる官吏軍を支配し、したがって、おびただしい数の利害と生存をつねに絶対的に左右している国、国家が市民社会を、その生活のもっとも広い発露からそのもっともささやかな動きにいたるまで、そのもっとも一般的な存在様式から個々人の私生活にいたるまで、からみこみ、統制し、処分し、監督し、後見している国、この寄生体〔国家〕が異常な中央集権化によって、あらざるところなく、知らざることなきものとなって、いよいよ急速な運動力と弾力を獲得しているのに、現実の社会体は、それにひきかえ、たよりなく非自立的で、ばらばらでまとまりがない点で、右の寄生体と好個の対照をなしているような国、こういう国では、国民議会が同時に国家行政を簡素化し、官吏軍をできるだけ減らし、最後に、市民社会や世論に、政府権力から独立した独自の機関をつくらせないかぎり、国民国家は、大臣の任免を左右する力を失うとともにいっさいの現実の影響力を失うということは、すぐに理解されるであろう。

 膨大な官僚・軍事組織をもち、多くの層に分かれた精巧な国家機能をもったこの執行権力、五〇万の軍隊とならぶもう五〇万の官僚軍、網の目のようにフランス社会の肉体にからみついて、その毛穴をふさいでいるこの恐ろしい寄生体、それは、絶対君主制の時代に、封建制度の没落につれて発生したものであって、この没落をはやめる助けをした。

 二代目ボナパルトのもとで、はじめて国家は完全に自立化したように見える。国家機構は、市民社会に対抗して自分の足場をしっかり固めたので、その先頭に立つものとしては、十二月十日会の首領、異国からまいこんできて、酔っぱらいの兵隊にかつぎあげられた山師で、十分まにあうほどである。

ところが、いまそのブルジョアジーが、大衆、卑しい群衆〔vile multitude〕の愚かさについてわめきたてている。

二代目ボナパルトは、おまけに彼はクロムウェルやナポレオンとは似もつかぬ執行権力をにぎっていたのであるが、その彼は、世界史の年代記にではなく、十二月十日会の年代記、刑事裁判所の年代記にその手本を求めた。

しかし、このブルジョア的秩序の力は中間階級にある。そこで、彼は、中間階級の代表をもって自任し、この趣旨の法令をだす。けれども、彼がひとかどの人物となっていられるのは、ひとえに彼がこの中間階級の政治的な力を打ち砕いたからであり、また日々にあらたに打ち砕いているからである。そこで、彼は、中間階級の政治的および分筆的な力の敵をもって自任する。しかし、彼は、中間階級の物質的な力を保護することによって、彼らの政治的な力をあらたにつくりだす。

 工業と商業、つまり中間階級の事業は、強力な政府のもとでむろ咲きの花を咲かせなければならない。

しかし、中間階級にはもう一度甘い口なおし〔douceur〕をやらなければならない。そこで、ブドウ酒を小売で買う人民にたいしては酒税を倍に引き上げ、それを卸で呑む中間階級にたいしては半分に引き上げる。現実の労働組合(アソツィアツィオン)は解散されるが、未来の結合社会(アソツィアツィオン)の奇跡を約束する。

(五八)『ルイ・ボナパルトブリュメール一八日』は、マルクス主義のもっとも重要な著作のひとつである。史的唯物論の基本命題、階級闘争とプロレタリア革命の理論、ならびにプロレタリア独裁の教説は、フランスにおける一八四八―五一年の革命の分析にもとづいて、この著作でいっそう展開されている。ここでマルクスは、勝利したプロレタリアートは必然的にブルジョア国家機関を破砕しなければならないという命題をはじめて立てた。マルクスはこの著作を一八五一年一二月から一八五二年三月までかかって書いた。このあいだ、彼はフランスにおける諸事件についてエンゲルスとたえず意見の交換をつづけた。原資料としてマルクスは、新聞と官庁資料のほかに、パリからの個人通信も利用した。『ルイ・ボナパルトブリュメール一八日』は、週刊誌『ディー・レヴォルツィオーン』に発表する予定であった。この雑誌はマルクスエンゲルスの友人で、ニューヨーク在住のヨーゼフ・ヴァイデマイヤーが準備中であった。しかしヴァイデマイヤーは、資金難のために一八五二年一月中にこの雑誌の二号しか発行できなかった。マルクスの論文は入稿がおくれたので、以上の号には発表されなかった。マルクスの申入れに応じて、ヴァイデマイヤーはこの著作を一八五二年五月に、雑誌『ディー・レヴォルツィオーン、不定期刊行の雑誌』の第一号に発表した。『ルイ・ボナパルトブリュメール一八日』という題名をヴァイデマイヤーは、『ルイ・ナポレオンブリュメール一八日』と変えた。ヴァイデマイヤーは、物質的状態が窮迫していたので、この版の大部分を印刷所の持ち主のもとから引き取ることができなかった。ヨーロッパに向けては、ごく少部数が供給されたにとどまった。この書物をドイツとイギリスであらたに出版しようという試みは、成功をおさめずにそのままになった。第二版はやっと一八六九年にハンブルクで出た。この版のために、マルクスの原文はあらたに加筆訂正された(これについては、マルクスの序文、本書、五五九―五六〇ページを参照)。エンゲルスの編集で一八八五年に出た第三版の原文は、少数の文体上の変更を別とすれば、一八六九年版の原文に合致している。『ルイ・ボナパルトブリュメール一八日』のフランス語訳、一八九一年一月から一一月にかけて、フランス労働党の週刊機関誌『ル・ソシアリスト』にはじめて発表された。同じ年に、この著作は単行本形式でリールで発行された。この復刻は一八六九年版によっている。個々の文体上の変更は、一八八五年版からとられている。一一一

(五九)ヘーゲル『歴史哲学講義』第三部。エンゲルスは、一八五一年一二月三日付のマルクスあての手紙で、この個所をあげている。一一五