柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

革命は同時に勝利しうるか

マルクスエンゲルス全集 第7巻』(大月書店)
マルクス「フランスにおける階級闘争」(中原稔生訳)

 フランスでは、正常ならば産業ブルジョアのしなければならないはずのことを小ブルジョアがなし、正常ならば小ブルジョアの任務であるべきことを労働者がしている。それでは労働者の任務はだれが解決するのだ? だれも解決しない。それはフランスでは解決されない。それはフランスで宣言される。それはどこでも一国家の壁のうちでは、解決されない(五一)。フランス社会内部の階級戦は、諸国民の相対峙する世界戦争に転化する。その解決、それは世界戦争によってプロレタリアートが、世界市場を支配する国民の先頭に、つまりイギリス国民の先頭にかりたてられる瞬間に、はじめて始まる。革命はこの国で終結するのではなく組織的に始まるのであるが、それは息の短い革命ではない。今日の世代は、モーセが砂漠を越えて導いていったユダヤ人に似ている。それは一つの新世界を征服しなければならないだけでなく、新世界に対処しうる人に席を譲るために、滅んでゆかなければならない。

(五一) プロレタリア革命は、進歩した資本主義諸国で同時に勝利しうるのみであり、一国における革命の勝利は不可能であるという結論が、もっとも明確に定式化されているのは、フリードリヒ・エンゲルスの著作『共産主義の原理』(本全集、第四巻、三六一―三八〇ページを参照)においてである。この結論は、独占以前の資本主義の時期には正しかった。独占資本主義の時期の新しい歴史的条件のもとでヴェ・イ・レーニンは、彼の発見した帝国主義時代における資本主義の経済的・政治的発展の不均等という法則から出発して、社会主義革命ははじめは数ヵ国で、それどころかただ一つの国においてさえ、勝利できるし、すべての国々、あるいは大多数の国々で革命が同時に勝利することは不可能であるという新しい結論に到達した。この新しい結論は、ヴェ・イ・レーニンの論文『ヨーロッパ合衆国のスローガンについて』(一九一五年)〔レーニン全集、第二一巻、邦訳、三四九―三五三ページ〕ではじめて定式化された。七九


柄谷行人「革命と反復 第一章 永続革命の問題」(at1号)の引用は
マルクスエンゲルス全集』(大月書店)によれば以下のようです。

マルクス「中央委員会の同盟員への呼びかけ」一八五〇年三月
マルクスエンゲルス「一八五〇年三月の中央委員会の同盟員への呼びかけ」

マルクス「新ライン新聞・政治経済評論」一八五〇年一〇月
エンゲルスマルクス「フランスにおける階級闘争」一八九五年版への序文」
 末尾:マルクスエンゲルス「新ライン新聞・政治経済評論」一八五〇年五―一〇月


マルクス『経済学・哲学草稿』(城塚登・田中吉六訳、岩波文庫

 こうしてたとえば、ヘーゲル法哲学では、止揚された私権は道徳に等しく、止揚された道徳は家族に等しく、止揚された家族は市民社会に等しく、止揚された市民社会は国家に等しく、止揚された国家は世界史に等しいとされる。


マルクスエンゲルス全集 第1巻』(大月書店)

ドイツ語版序文(岡崎次郎訳)

彼らは世界史の最大の成果を人類におくった。

ドイツ社会主義統一党中央委員会付属
マルクスレーニン主義研究所

ロシア語第二版序文(村田陽一訳)

資本主義の墓掘人、新しい共産主義社会の創造者となるという自分の世界史的な使命をはたすためには、プロレタリアートは、それ自身の労働者党をもたなければならない。

こうして、マルクスエンゲルスが、独占以前の資本主義の条件から出発して、社会主義革命はある一つの国だけで勝利することは不可能であり、すべての、あるいは大多数の文明国で同時に勝利するほかはないと主張していたのにたいして、レーニンは、帝国主義時代には資本主義は経済的および政治的に不均等に発展するという法則を発見して、マルクスエンゲルスのこの古い公式の再検討をおこなった。レーニンが到達した結論は、新しい条件、帝国主義の条件のもとでは、はじめはいくつかの国、あるいはただ一つの国でさえ社会主義が勝利することは可能であり、すべての国または大多数の国で社会主義革命が同時に勝利することはありえない、ということであった。

ソ連邦共産党中央委員会付属
マルクスレーニン主義研究所


マルクス] 「プロイセンの最新の検閲訓令にたいする見解」 一ライン州人(城塚登訳)
『アネクドーク・ツール・ノイエステン・ドイッチェン・フィロソフィー・ウント・プブリツィリスティーク』第一巻、一八四三年掲載

したがって検閲官は、この訓令に従えばカント、フィヒテスピノザといったような道徳の知的英雄たちを非宗教的であるとして、礼儀・習俗・外観的儀容を棄損するものとして、排斥しなければならないことになろう。

一八四二年一月一五日―二月一〇日に執筆