柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

売る立場と買う立場

マルクス資本論』第三巻(岡崎次郎訳、大月書店)

 商品と貨幣とはどちらも交換価値と使用価値との統一物だとはいえ、すでに見たように(第一部第一章第三節)、売買ではこの二つの規定が二つの極に対極的に分かれて、商品(売り手)は使用価値を代表し、貨幣(買い手)は交換価値を代表することになる。
 諸商品の需要と供給との関係では、第一に、使用価値と交換価値との関係、商品と貨幣との関係、買い手と売り手との関係が再現する。


柄谷行人が『探究I』で行なった「教える‐学ぶ」の議論は
マルクスの「売る‐買う」の変奏といえる。


中島一夫 http://d.hatena.ne.jp/knakajii/20090822/p1
室井尚 http://www.bekkoame.ne.jp/~hmuroi/co3.html

Twistar http://twistar.cc/sasaki_makoto


ヘーゲル『法の哲学』(藤野渉・赤澤正敏訳、中央公論社

§二五九

国家の理念は、個体的諸国家に対する類および絶対的威力としての普遍的理念であり、世界史の進行のなかでおのれの現実性をあらわす精神である。

ところでこの第三者というのが、世界史のなかで現実性をあらわして諸国家に対する絶対的審判者をなすところの精神なのである。

§二七〇

それからまた、国家が現世に立つ精神であるのに対して、世俗的利益と、現実世界の進行と職務に対して無関心であることが宗教の訓えとみなされるのであれば、宗教を教示するということは、国家の利益と職務を本質的な真剣な目的に高めるのには不適当と思えるし、そうでなければこの教示は他面、国家統治においては万事がどうでもよい恣意のことがらだと言いふらすことであるように思われる。

これは全世界史がたずさわってきた労働であって、この世界史の労働を通じてこそ人類は陶冶されて、理性的現存在である国家機構と法律との現実性と意識とをかち得たのである。

 だが教会が所有物を占有し、その他崇拝の行事を執り行ない、そのために奉仕する諸個人をもつかぎり、教会は内面的世界から世俗的世界へ、したがって国家の領域へと、こちら側の世界へ入ってき、これによって直接、国家の法律の支配下に入る。

すなわち教会は、おのれのうちに宗教の絶対的内容が含まれているとするところから、精神的なもの一般を、したがって倫理の活動舞台(エレメント)をも、おのれに属する部分をみなし、これに対して国家を、非精神的で外面的な諸目的のための機械的踏台と解し、おのれを神の国、ないしは少なくともそれに至る道および入口と解するのに対して、国家を世俗の国、すなわち無常かつ有限なものと解し、こうしておのれを自己目的と解するのに対して、国家をたんなる手段にすぎないと解する、という対立である。

すなわちそこでは、高次の精神的なものがすべて教会に座をもち、国家は暴力や恣意や激情の世俗的支配にすぎず、国家と教会とのさきの抽象的対立が現実世界の主要原理なのであった〔§三五八を見よ(3)〕。


国家=世俗的(セキュラー)、構成的理念
教会(中間団体)=宗教的、統整的理念

ということだろうか。

ヘーゲルの「手段にすぎない」という言葉は
カントを意識しているかもしれない。


meyou http://meyou.jp/modules/search/?q=sasaki_makoto


1748年 モンテスキュー "De l'Esprit des lois"『法の精神』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E3%81%AE%E7%B2%BE%E7%A5%9E
1821年 ヘーゲル "Grundlinien der Philosophie des Rechts" 『法の哲学』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6


オランダのユトレヒト(Utrecht)は
ドイツ語のRecht(法・権利、英語のright)に関連するのではと思っていたが
47年にローマ人がライン川に要塞を築いた時の
歩いて渡れる場所(Ur traiectum)に由来するという。


マルクス資本論』第三巻(岡崎次郎訳、大月書店)
第一〇章 競争による一般的利潤率の平均化 市場価格と市場価値 超過利潤
こういうわけで、このような前提のもとでは利潤率の相違はどうでもよい事情なのであって、それは、ちょうど、今日賃金労働者にとって自分から搾りとられる剰余価値量がどんな利潤率で表わされようとどうでもよいようなものであり、また、ちょうど、国際貿易でいろいろな国民のあいだの利潤率の相違が彼らの商品交換にとってどうでもよい事情であるようなものである。
 それだから、価値どおりの、またはほぼ価値どおりの、諸商品の交換は、資本主義的発展の一定の高さを必要とする生産価格での交換に比べれば、それよりもずっと低い段階を必要とするのである。
すなわち、生産物の商品への発展は、別々の共同体のあいだの交換によって生ずるのであって、同じ共同体のなかの諸成員のあいだの交換によって生ずるのではない、という見解がそれである。
 諸商品が互いに交換されるさいの価格が諸商品の価値とほぼ一致するためには、次のことよりほかにはなにも必要ではない。(1) いろいろな商品の交換がまったく偶然的な交換や単に臨時的な交換ではなくなるということ。(2) 直接的な商品交換が考察されるかぎりでは、これらの商品がどちらの側でも相互の欲望にほぼ一致する割合で生産されるということ。これは相互の販売経験がそうさせるのであり、したがって継続的な交換そのものの結果として生まれてくることである。
 商品と貨幣とはどちらも交換価値と使用価値との統一物だとはいえ、すでに見たように(第一部第一章第三節)、売買ではこの二つの規定が二つの極に対極的に分かれて、商品(売り手)は使用価値を代表し、貨幣(買い手)は交換価値を代表することになる。
 諸商品の需要と供給との関係では、第一に、使用価値と交換価値との関係、商品と貨幣との関係、買い手と売り手との関係が再現する。
第一一章 労賃の一般的変動が生産価格に及ぼす影響
第一二章 補遺
第一節 生産価格の変動をひき起こす諸原因
第二節 中位構成の商品の生産価格
第三節 資本家の補償理由
第三篇 利潤率の傾向的低下の法則
第一三章 この法則そのもの
すなわち、発展度の低いほうの国では労働の生産性がより低く、したがってより多量の労働がより少量の同じ商品で表わされ、より大きい交換価値がより小さい使用価値で表わされ、したがって労働者は自分のより大きい部分を自分の生活手段またはその価値の再生産のために費やし、より小さい部分を剰余価値の生産のために費やさなければならず、より小さい剰余労働を供給するであろうから、そこでは剰余価値率がより低いであろうということによってである。
第一四章 反対に作用する諸原因
第一節 労働の搾取度の増強
第二節 労働力の価値以下への労賃の引下げ
第三節 不変資本の諸要素の低廉化
第四節 相対的過剰人口
第五節 貿易
第六節 株式資本の増加
第一五章 この法則の内的な諸矛盾の展開
第一節 概説
第二節 生産の拡大と価値増殖との衝突
 しかし、間接には、労働の生産力の発展は、既存の資本価値を増加させることに役立つ。というのは、それは、同じ交換価値を表わす使用価値の量と多様性とを増加させ、これらの使用価値は資本の物質的基体、その物的諸要素を形成しており、これらの素材的対象から不変資本は直接に成っており、また可変資本も少なくとも間接にはそれらから成っているからである。資本に転化することのできるいろいろな物が、その交換価値は別問題として、同じ資本と同じ労働とでより多くつくりだされるのである。
第三節 人口の過剰を伴う資本の過剰
第四節 補遺
第二には、労働の生産性の増大につれて、同じ交換価値で表わされる使用価値の量、つまり資本の物的要素の量が増大するからである。
第四篇 商品資本および貨幣資本の商品取引資本および貨幣取引資本への転化(商人資本)
第一六章 商品取引資本
 すでに見たように、商品資本としての資本の定在、また資本が流通部面のなかで、市場で、商品資本として通る変態――売りと買いとに、すなわち商品資本の貨幣資本への転化と貨幣資本の商品資本への転化との分解する変態――は、産業資本の再生産過程の、したがってその総生産過程の、一段階をなしているが、しかしまた同時に、産業資本は、このような流通資本としてのその機能においては、生産資本としてのそれ自身から区別される。
このような、売るために買うという操作、G―W―G’、すなわち、資本がまったく流通過程のなかに封じ込められていて、それ自身の運動や機能の外にある生産過程という中休みによって中断されることがないという、資本の単純な形態を、絶えず彼は繰り返すのである。
   三八 すなわち、まずその交換価値に支払い、次にはまたその使用価値に特別に支払うのではない。私はその交換価値に支払い、そのかわりに私はその使用価値を自分のものにするのである。そして、商品が生産者または中間商人の手から消費者の手に移ることによっては、交換価値は少しもふやされはしないのである。
第一七章 商業利潤