柄谷行人を解体する

批評家・柄谷行人を―カント、マルクスを視軸にして―読む

トルコ人における芸術と学問の萎縮した状態

ヘーゲルは1788年、ギムナジウム卒業論文で「トルコ人における芸術と学問の萎縮した状態」を朗読したという。


ヘーゲル『法の哲学』(藤野渉・赤澤正敏訳、中央公論社

  

§二七〇
こうして国家のほうはみずからが世俗性の一領域であることを示すのに対して、宗教のほうは、みずからが無限性の一領域であることを示す。
たしかに国家は、本質的に世俗的で有限であり、特殊的目的と特殊的権力をもつのではあるが、しかし国家が世俗的であるのはその一面にすぎず、精神なき知覚にとってだけ、国家はたんに有限なのである。
それゆえ神の国にも、世俗の国でのようにもろもろの有限なものが生じるのであって、世俗的精神すなわち国家が有限な精神にすぎないというのは一面的な見方である。
もちろん悪しき国家は世俗的で有限であるにすぎないが、理性的国家はそれ自身のうちにおいて無限である。
理念は宗教においてあるときは、心情の内奥にある精神であるが、しかしこの同じ理念が、国家においてはみずからに世俗性を与え、知と意志のはたらきにおいて現存在と現実性を手に入れるのである。
§二七三
世界精神がこのようにおのれのうちへ深まってゆく歴史、あるいは同じことであるが、こうした自由な成熟過程、すなわちそこにおいて理念が、おのれの諸契機を〔なにしろそれはたんに理念の諸契機にすぎない〕、それぞれ総体性をなすものとしておのれから解き放し、まさにそうするとともに、それらを概念の理念的一体性のうちに保持し、この一体性において実在的な理性的状態を成立せしめるところの過程、――倫理的生活のこの真の形態化の歴史、これこそ普遍的な世界史の仕事なのである。
§二八一
というのは、彼らは支配者と理念の上で繫がっているわけでもなく、国家体制の内的必然性をともにしているわけでもないからであり、たんに一個の契約が存在しているだけで、国家結合は存在していないのだからである。
§二八八
彼らの配慮し管理するこれらの要件は、一面では、これらの特殊的な諸圏の私的所有と利益であり、この面からすれば、彼らの権威もまた、彼らと同じ身分の者や同じ市民たちの信頼に基づくが、しかし他面、これらの仲間集団は、国家のより高い利益に従属していなければならない。
§二九〇
 ところがフランスには、職業団体と自治団体(コミューン)が、すなわちそこにおいて特殊的利益と普遍的利益とが一致するところの仲間集団が欠けている。なるほど中世ではこうした仲間集団は、あまりに大きな独立性を獲得して、国家のなかの国家をなし、まるで自分たちだけで独立に存在している団体であるようなふるまい方をかたくなに固持したのであった。
§二九七
 政府構成員と官吏は、国民大衆の教養ある知性と合法的な意識とが所属する中間身分(2)の主要部分をなすものである。
追加〔中間身分の意義〕官吏の属する中間身分のうちにこそ、国家の意識と最も優れた教養がある
この中間身分が形成されるということが国家の主要関心事であるが、しかしこれは、われわれが見たような組織においてのみ可能なのである。すなわち一方では、相対的に独立している特殊的な仲間集団に権限を賦与することによって、また他方では、こうした有権団体にぶつかってその恣意が挫かれるような官僚界をつくることによって可能なのである。普遍的な法に即した行動の習慣は、それ自身としては独立している仲間集団が(官僚界に対して)対立をなすことの一つの帰結なのである。
(2) これは当時の新しい用語であって、アリストテレス政治学に通じていた人々にあっては、アルストテレスのいうメソイ(中間の人々)の意味で用いられた。アリストテレスはこれを経済的な中間段階と定義し(『政治学』第四巻第一一章)、国家はメソイによって構成される場合が最善であるとしたが、ヘーゲルは経済的な面をまったく無視して、中間身分という用語を君主と民衆との中間に位する教養ある身分としての官吏身分に転用した(ローゼンツヴァイクヘーゲルと国家』第二巻一五一ページ参照)。
§三〇三
なかでも国家は本質的に、それぞれの分肢がそれ自身だけで仲間集団であるような、そういうもろもろの分肢から成る一つの組織体である。
 例の仲間集団というかたちをとってすでに存在している共同体を、それが政治の場へ、すなわち最高の具体的普遍性の立場へ入ってゆく場合に、もとどおり多数の諸個人に解体される考え方は、まさにそうすることによって、市民生活と政治生活とを別々に切り離したままにしておき、後者をいわば宙に浮かすわけである。